21年ぶりに返還されたフィルム
1952年(昭和27年)に占領が終わると秘匿・保存されていたフィルムは、国内で部分的にニュース映像や映画に活用され始める。一方、学術調査団として映画の製作にも協力した科学者たちは、米国の科学者を通じ、映画の所在を確認することに努力する。1967年(昭和42年)、米国政府が映画の返還を検討すると、日本政府は交渉を始め、ついに、原版からの複製ではあったもののフィルムが21年ぶりに日本へ返還された。
[56] 映画製作者の名前が書かれた色紙
1967年(昭和42年)9月2日
原爆記録映画制作者の集いは、返還された映画の全面公開を求め、より鮮明なフィルムの返還を訴えた。 |
[57] 映画の公開
1968年(昭和43年)5月2日 中島町 広島市公会堂
返還された映画の公開については、「原爆記録映画の保管と利用に関する会議」が設置され協議が行われた。その結果、文部省は映画に写っている人の人権に配慮して一部をカットし公開することを決定。一般公開用に日本語版が作成され、広島市公会堂で上映会が行われた。 |
[58] 新しい映画の製作へ
1970年(昭和45年)6月21日
中島町 広島平和記念資料館
広島市では、1970年(昭和45年)5月19日に広島原爆映画製作委員会が設置された。日本映画新社(日本映画社の後身)によって新しい原爆記録映画の製作が始まる。映画では、返還された映画のカット部分も使用し、被爆当時の広島の姿と今日まで続く被爆の影響を訴えようとした。 |
[59] ノーカットを求める運動
1968年(昭和43年)9月12日
八丁堀 広島YMCA
被爆者団体や映画製作者からも全面公開を求める声が上がった。広島では、1968年(昭和43年)6月6日に原爆記録映画全面公開推進会議が結成され、カットされた部分に登場する被爆者の了解を得る作業が進められた。 |