戦時下の映画(えいが)

 戦時中、人々の娯楽(ごらく)の一つでもあった映画(えいが)統制(とうせい)を受け、戦意高揚(せんいこうよう)手段(しゅだん)として利用された。1939年(昭和14年)に映画法(えいがほう)制定(せいてい)されると、映画館(えいがかん)では戦況(せんきょう)などを伝えるニュース映画(えいが)、自然や人々の()らしをとらえた文化映画(ぶんかえいが)上映(じょうえい)義務(ぎむ)づけられる。フィルムなどの物資(ぶっし)も不足し、国の管理体制(かんりたいせい)も強化される。次々と映画(えいが)会社は統合(とうごう)され、1941年(昭和16年)、後に原爆被災(げんばくひさい)記録映画(きろくえいが)撮影(さつえい)することになる社団法人(しゃだんほうじん) 日本映画社(にほんえいがしゃ)設立(せつりつ)された。

日本映画社(えいがしゃ)の社屋
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日本映画社(えいがしゃ)の社屋

1951年(昭和26年)ごろ
東京都中央区(ちゅうおうく)銀座(ぎんざ)
ニュース映画(えいが)は、1940年(昭和15年)に日本ニュース映画社(えいがしゃ)製作(せいさく)する「日本ニュース」へ統合(とうごう)。日本ニュース映画社(えいがしゃ)は、翌年(よくねん)には、社団法人(しゃだんほうじん) 日本 映画社(えいがしゃ)となり、多くの文化(ぶんか)映画会社(えいががいしゃ)吸収(きゅうしゅう)した。


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映画館(えいがかん)上映(じょうえい)プログラム

1941年(昭和16年)11月26日~12月29日
映画法(えいがほう)により、映画館(えいがかん)では政府(せいふ)から認定(にんてい)されたニュース映画(えいが)文化映画(ぶんかえいが)上映(じょうえい)義務(ぎむ)づけられた。

日本映画社の腕章と社章バッジ
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日本映画社(えいがしゃ)腕章(わんしょう)と社章バッジ