廃虚(はいきょ)の街に入る

 9月19日、撮影(さつえい)スタッフの生物班(せいぶつはん)が東京から広島へ向けて出発。続いて物理班(ぶつりはん)が東京を発ち、最後に土木建築班(どぼくけんちくはん)医学班(いがくはん)撮影(さつえい)スタッフが広島へ入った。現地(げんち)では、食糧(しょくりょう)などの物資(ぶっし)が不足するなど、苦労が(ともな)った。しかし、各班(かくはん)撮影(さつえい)スタッフは焼け跡(やけあと)丹念(たんねん)に歩き、学術調査団(がくじゅつちょうさだん)の活動を追いながら広島の被害(ひがい)をカメラに(おさ)めていく。広島での撮影(さつえい)は、約1ヵ月間に(およ)んだ。

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廃虚(はいきょ)の中での撮影(さつえい)

1945年(昭和20年)10月 細工町 爆心地(ばくしんち) 
10月に入り、先行の生物班(せいぶつはん)に続き、他の(はん)撮影(さつえい)本格化(ほんかくか)する。撮影(さつえい)スタッフは、天候に左右されながらも、広島の惨状(さんじょう)を記録するという強い思いでフィルムを回し続けた。爆心地付近(ばくしんちふきん)放射線測定(ほうしゃせんそくてい)の様子を撮影(さつえい)している。


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広島・長崎(ながさき)ロケ日記
映画製作(えいがせいさく)のプロデューサーを(つと)めた加納竜一氏のロケ日記。

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調査団(ちょうさだん)を乗せて市内に入るトラック

1945年(昭和20年)10月5日 基町(もとまち) 
爆心地(ばくしんち)から180m 
映画(えいが)製作(せいさく)スタッフは、学術調査団(がくじゅつちょうさだん)調査(ちょうさ)の様子を撮影(さつえい)するため、行動を共にした。宿舎(しゅくしゃ)と市内の移動(いどう)には、トラックが手配された。

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製作(せいさく)スタッフと調査員(ちょうさいん)

1945年(昭和20年)10月 基町(もとまち)
現地(げんち)では、学術調査団(がくじゅつちょうさだん)連携(れんけい)し、協力しながら撮影(さつえい)は進んだ。製作(せいさく)スタッフが現地(げんち)での案内役を(つと)めたり、宿舎(しゅくしゃ)調査員(ちょうさいん)との打ち合わせが行われることもあった。