原爆投下(げんばくとうか)調査活動(ちょうさかつどう)

 1945年(昭和20年)8月6日、広島へ投下された一発の原子爆弾(げんしばくだん)により街は破壊(はかい)され、多くの人が(きず)つけられた。被爆(ひばく)直後から軍を中心に救援活動(きゅうえんかつどう)が行われる一方、在広(ざいこう)の軍関係者が被害状況(ひがいじょうきょう)爆弾(ばくだん)特性(とくせい)確認(かくにん)対策(たいさく)(こう)じるため、現地調査(げんちちょうさ)に入る。8日以降(いこう)は、政府(せいふ)大本営(だいほんえい)調査団(ちょうさだん)、陸海軍から委嘱(いしょく)を受けた大学の研究者が次々と広島へ派遣(はけん)され、放射線(ほうしゃせん)測定(そくてい)などの調査(ちょうさ)を行った。

火災(かさい)の煙(けむり)がくすぶる市内中心部
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火災(かさい)(けむり)がくすぶる市内中心部

1945年(昭和20年)8月7日 播磨屋町(はりまやまち) 
爆心地(ばくしんち)から490m
被爆(ひばく)により発生した火災(かさい)は、被爆(ひばく)当日の午前10時ごろから午後2~3時ごろを頂点(ちょうてん)に、終日燃え続(もえつづ)けた。爆心地(ばくしんち)から半径2キロメートル以内の地域(ちいき)はことごとく焼失した。


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原爆(げんばく)の人体への影響(えいきょう)を研究する米国の調査団(ちょうさだん)

1945年(昭和20年)9月11日 宇品町(うじなちょう) 広島第一/rb>(ひろしまだいいち)陸軍病院(りくぐんびょういん)宇品分院(うじなぶんいん) 
爆心地(ばくしんち)から4,200m
マンハッタン管区(かんく)調査団(ちょうさだん)が、米国の調査団(ちょうさだん)として初めて広島市内に入った。被爆地(ひばくち)が安全かどうかを確認(かくにん)し、原爆(げんばく)影響(えいきょう)、特に放射線(ほうしゃせん)に関する影響(えいきょう)調査(ちょうさ)するため、多くの情報(じょうほう)収集(しゅうしゅう)した。


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広島爆撃報告書(ばくげきほうこくしょ)の草案

被爆後(ひばくご)調査団(ちょうさだん)調査結果(ちょうさけっか)検討(けんとう)され、この報告書(ほうこくしょ)に初めて「原子爆弾(げんしばくだん)ナリト(みとめ)ム」との「判決(はんけつ)」が公式に記された。