廃虚の街に入る
土木建築班の撮影
土木建築班は、主に爆風による建築物や樹木への被害を撮影した。撮影された映像は、映画の中で、冒頭の一般被害を説明する場面に使用され、爆心地からの距離ごとの建物の被害を説明している。この班のカメラマンの三木茂氏は、スチール写真も撮影。撮影枚数は200枚以上にのぼる。
[34] 中国新聞社から南東を望む
1945年(昭和20年)10月 上流川町 爆心地から870m
木造家屋が多く建ち並んでいた地域であったため、残った建物はほとんどなく、焼け野原が続く。
道路には、暴風雨による水がたまっている。
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歩道部分が押し上げられた相生橋
1945年(昭和20年)10月 相生橋
爆心地から300m
写真は西から東に向けて撮影されている。爆風によって欄干は倒れ、北側の歩道部分が上流側にずれた。また、爆風が水面から反射し、歩道部分を約1.5m押し上げた。 |
[36] 広島県産業奨励館(現在の原爆ドーム)
1945年(昭和20年)10月 猿楽町
爆心地から160m
原爆ドームの南東側から撮影したもの。ドームは建物のほぼ真上から爆風を受けたため、壁の一部は倒壊を免れた。 |
[37] 爆風によって傾いた時計店
1945年(昭和20年)10月 播磨屋町
下村時計店 爆心地から620m
鉄筋コンクリートの建物の中には、構造上の特徴から崩れ落ちる建物もあった。この時計店は、1階部分は崩れ落ち、2階部分と時計台が爆心地とは反対方向に傾いている。 |
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被害を受けた家屋が並ぶ
1945年(昭和20年)10月7日南蟹屋町付近
爆心地から約2,800m
爆心地から遠ざかるにつれ、家屋の被害は小さくなっていく。しかし、構造によっては約4km離れた地点でも倒壊する例もあった。土木建築班が撮影した映像により、爆心地からの距離による被害の程度を確認することができる。 |