廃虚(はいきょ)の街に入る

土木建築班(どぼくけんちくはん)撮影(さつえい)

土木建築班(どぼくけんちくはん)は、主に爆風(ばくふう)による建築物(けんちくぶつ)樹木(じゅもく)への被害(ひがい)撮影(さつえい)した。撮影(さつえい)された映像(えいぞう)は、映画(えいが)の中で、冒頭(ぼうとう)一般被害(いっぱんひがい)を説明する場面に使用され、爆心地(ばくしんち)からの距離(きょり)ごとの建物の被害(ひがい)を説明している。この(はん)のカメラマンの三木茂氏(みきしげるし)は、スチール写真も撮影(さつえい)撮影枚数(さつえいまいすう)は200(まい)以上にのぼる。

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中国新聞社から南東を望む

1945年(昭和20年)10月 上流川町 爆心地(ばくしんち)から870m 
木造家屋(もくぞうかおく)が多く建ち(なら)んでいた地域(ちいき)であったため、残った建物はほとんどなく、焼け野原が続く。
道路には、暴風雨(ぼうふうう)による水がたまっている。


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歩道部分が()し上げられた相生橋

1945年(昭和20年)10月 相生橋
爆心地(ばくしんち)から300m 
写真は西から東に向けて撮影(さつえい)されている。爆風(ばくふう)によって欄干(らんかん)(たお)れ、北側の歩道部分が上流側にずれた。また、爆風(ばくふう)が水面から反射(はんしゃ)し、歩道部分を約1.5m()し上げた。

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広島県産業奨励館(さんぎょうしょうれいかん)現在(げんざい)原爆(げんばく)ドーム)

1945年(昭和20年)10月 猿楽町(さるがくちょう)
爆心地(ばくしんち)から160m 
原爆(げんばく)ドームの南東側から撮影(さつえい)したもの。ドームは建物のほぼ真上から爆風(ばくふう)を受けたため、(かべ)の一部は倒壊(とうかい)(まぬが)れた。

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爆風(ばくふう)によって(かたむ)いた時計店

1945年(昭和20年)10月 播磨屋町(はりまやまち) 
下村時計店 爆心地(ばくしんち)から620m
鉄筋(てっきん)コンクリートの建物の中には、構造上(こうぞうじょう)特徴(とくちょう)から(くず)れ落ちる建物もあった。この時計店は、1階部分は(くず)れ落ち、2階部分と時計台が爆心地(ばくしんち)とは反対方向に(かたむ)いている。


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被害(ひがい)を受けた家屋が(なら)

1945年(昭和20年)10月7日南蟹屋町(みなみかにやちょう)付近(ふきん)
爆心地(ばくしんち)から約2,800m 
爆心地(ばくしんち)から遠ざかるにつれ、家屋の被害(ひがい)は小さくなっていく。しかし、構造(こうぞう)によっては約4km(はな)れた地点でも倒壊(とうかい)する例もあった。土木建築班(どぼくけんちくはん)撮影(さつえい)した映像(えいぞう)により、爆心地(ばくしんち)からの距離(きょり)による被害(ひがい)程度(ていど)確認(かくにん)することができる。