廃虚(はいきょ)の街に入る

医学班(いがくはん)撮影(さつえい)

医学班(いがくはん)撮影(さつえい)は、10月1日から始まる。ちょうど戦時災害(せんじさいがい)保護法(ほごほう)による治療(ちりょう)が打ち切られ、救護(きゅうご)所が徐々(じょじょ)閉鎖(へいさ)されるころだった。しかし、病院や残された救護所(きゅうごじょ)では治療(ちりょう)が続き、原爆(げんばく)による障害(しょうがい)で苦しむ人の姿(すがた)があった。撮影(さつえい)スタッフは、悲惨(ひさん)負傷者(ふしょうしゃ)状態(じょうたい)に心を(いた)めながら、記録し続ける。医学編(いがくへん)映像(えいぞう)は他の(へん)(ちが)い、撮影(さつえい)視点(してん)が、被爆(ひばく)し、(きず)ついた人に置かれている。

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()(あと)に立つ広島赤十字病院

1945年(昭和20年)10月
千田町一丁目 広島赤十字病院
爆心地(ばくしんち)から1,500m 
外観だけは残ったものの(まど)ガラスは吹き飛(ふきと)び、内部は破壊(はかい)された。被爆(ひばく)当日から負傷者(ふしょうしゃ)殺到(さっとう)し、懸命(けんめい)救護活動(きゅうごかつどう)が続いた。

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背後(はいご)から原爆(げんばく)の熱線を受けた男性(だんせい)

1945年(昭和20年)10月5日~6日
千田町一丁目 広島赤十字病院
爆心地(ばくしんち)から1,500m 
負傷者(ふしょうしゃ)は佐々木忠孝さん。広島城付近(ひろしまじょうふきん)被爆(ひばく)し、気がつくと(ほり)の中にいた。大やけどしながらも川の中州などへ避難(ひなん)する。翌日(よくじつ)救護所(きゅうごじょ)のあった福屋に運ばれ、その後、広島赤十字病院に収容(しゅうよう)された。病院での手当はリバノール(えき)(ひた)したガーゼを()るだけ、取り替(とりか)える時は傷口(きずぐち)(いた)んだという。

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袋町(ふくろまち)国民学校(こくみんがっこう)

1945年(昭和20年)10月5日~7日袋町(ぶくろまち) 爆心地(ばくしんち)から460m

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校舎内(こうしゃない)(もう)けられた診療室(しんりょうしつ)

袋町(ふくろまち)国民学校(こくみんがっこう)校舎(こうしゃ)階段下(かいだんした)の空間に診療室(しんりょうしつ)(もう)けられた。中央の医師(いし)は、自らも被爆(ひばく)し、体調がすぐれない中、負傷者(ふしょうしゃ)救護(きゅうご)にあたった。

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収容患者(しゅうようかんじゃ)に重湯を飲ませる

1945年(昭和20年)10月20日 
草津東町(くさつひがしまち) 草津(くさつ)国民学校(こくみんがっこう)
爆心地(ばくしんち)から4,700m 
被災者(ひさいしゃ)に対して、炊き出(たきだ)しや周辺の地域(ちいき)からの握り飯(にぎりめし)などが配られた。地元の人たちも看護(かんご)にあたり、懸命(けんめい)救護活動(きゅうごかつどう)が続いた。

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伝染病(でんせんびょう)判断(はんだん)された症状(しょうじょう)

1945年(昭和20年)10月22日 
胡町(えびすちょう) 福屋百貨店
爆心地(ばくしんち)から710m 
当初、原爆(げんばく)による症状(しょうじょう)は、高熱や下痢(げり)症状(しょうじょう)から赤痢(せきり)判断(はんだん)され、福屋百貨店に伝染病病院(でんせんびょうびょういん)開設(かいせつ)された。布団(ふとん)には「伝染病患者(でんせんびょうかんじゃ)使用物(しようぶつ)危険(きけん)ニ付キサワルベカラズ」と書かれた紙が()ってある。