米軍管理下での製作(せいさく)とフィルムの接収(せっしゅう)

[49]
映画(えいが)解説原稿(かいせつげんこう)

映画(えいが)は米国側の委嘱(いしょく)を受ける形で製作(せいさく)されたため、全編英語(ぜんぺんえいご)構成(こうせい)されている。まず日本語の解説原稿(かいせつげんこう)をつくり英訳(えいやく)を行った。日本映画社(えいがしゃ)の社員が翻訳(ほんやく)し、外務省(がいむしょう)の島内俊郎氏や仁科芳雄氏が協力した。

[51]
試写会が行われた日比谷公会堂(ひびやこうかいどう)

東京都千代田区
録音、最終的な校正を()て1946年(昭和21年)4月下旬(げじゅん)映画(えいが)は完成した。上映(じょうえい)時間2時間45分、全19巻(ぜん19かん)日本映画社内(にほんえいがしゃない)で広島・長崎(ながさき)各編(かくへん)の試写会が行われた後、5月4日には日比谷公会堂(ひびやこうかいどう)で米国関係者を対象に試写会が開催(かいさい)された。

[54]
フィルムの秘匿(ひとく)

東京都世田谷区
撮影(さつえい)したフィルムは、すべて米国へ送られた。しかし、何としても映画(えいが)を残したいという思いから未整理のフィルムが関係者の手によって極秘(ごくひ)保存(ほぞん)される。フィルムは三木映画社(みきえいがしゃ)現像所(げんぞうじょ)秘匿(ひとく)された。


[52]

[52]
米国へ輸送(ゆそう)されるフィルムを記した記事(英文)

1946年(昭和21年)5月13日
「シカゴ・サン」(夕刊(ゆうかん)
完成した映画(えいが)は、日本国内で一般公開(いっぱんこうかい)されることなく、米国へ輸送(ゆそう)された。撮影(さつえい)に要したフィルムは、未編集(みへんしゅう)のものを(ふく)め、英文のデータと共に米国へ送られた。

[53]
線画注文書

映画(えいが)の中には、撮影(さつえい)した映像(えいぞう)だけでなく、撮影場所(さつえいばしょ)(しめ)した市内の地図や放射線測定結果(ほうしゃせんそくていけっか)のグラフなど図表も挿入(そうにゅう)された。図表の製作(せいさく)は、他の会社へ発注し、映画(えいが)編集(へんしゅう)並行(へいこう)して作業が進んだ。