廃虚(はいきょ)の街に入る

物理班(ぶつりはん)撮影(さつえい)

 物理班(ぶつりはん)は、原爆(げんばく)の熱線と放射線(ほうしゃせん)影響(えいきょう)をテーマに撮影(さつえい)を進めた。映画(えいが)では、熱線の影響(えいきょう)を建物や墓石(ぼせき)に残る(かげ)(かわら)や石の表面の変化によって(とら)えている。放射線(ほうしゃせん)については、市内の放射線測定(ほうしゃせんそくてい)の様子や黒い雨の影響(えいきょう)を受けた資料(しりょう)撮影(さつえい)することで説明しようとした。また、一部の撮影(さつえい)生物班(せいぶつはん)担当(たんとう)している。


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(かげ)から爆発高度(ばくはつこうど)推定(すいてい)する

1945年(昭和20年)9月29日 猿猴橋町(えんこうきょうまち) 
広島市信用組合(しんようくみあい)猿猴橋支所(えんこうばしししょ) 爆心地(ばくしんち)から1,920m
爆心地(ばくしんち)爆発高度(ばくはつこうど)が、熱線をさえぎってできた(かげ)をもとに、推定(すいてい)された。写真では、調査員(ちょうさいん)の田島英三氏が、広島市信用組合(しんようくみあい)猿猴橋支所(えんこうばしししょ)の屋上にあった防空監視哨(ぼうくうかんししょう)に残っていた(かげ)測定(そくてい)し、爆発高度(ばくはつこうど)を求めている。

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橋の上に残った欄干(らんかん)(かげ)

1945年(昭和20年)10月 万代橋
爆心地(ばくしんち)から890m 
万代橋では、写真の左側から熱線を受け、欄干(らんかん)によってさえぎられた部分が(かげ)のようになって残った。

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瓦礫(がれき)散乱(さんらん)する街

1945年(昭和20年)10月20日
物理編(ぶつりへん)演出(えんしゅつ)担当(たんとう)した相原秀二氏は熱線による被害(ひがい)特徴(とくちょう)をつかむため、()(あと)を歩き回り散乱(さんらん)する(かわら)や石を調べた。熱線を受けた(かわら)は表面が()け、泡状(あわじょう)になった。

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放射線調査(ほうしゃせんちょうさ)のための資料採取(しりょうさいしゅ)

1945年(昭和20年)9月24日 猿楽町(さるがくちょう) 
木村一治氏が、原爆(げんばく)ドーム付近で放射線調査(ほうしゃせんちょうさ)のために資料(しりょう)採取(さいしゅ)する様子。投下から1ヵ月半が経過(けいか)していたが、辺りには人骨(じんこつ)が残っていた。

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黒い雨を浴びたズボン

1945年(昭和20年)
10月 己斐町(こいまち)
撮影(さつえい)スタッフは、市内の広範囲(こうはんい)にわたり被爆(ひばく)惨状(さんじょう)撮影(さつえい)した。市の西部を(おとず)れ、黒い雨を浴びた資料(しりょう)撮影(さつえい)。家の雨戸に付着した(どろ)採取(さいしゅ)した。


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爆心地(ばくしんち)を求めた地図

熱線による(かげ)測定(そくてい)し、その方向を地図上に落して交差する地点を爆心地(ばくしんち)とした。広島護国神社(ごこくじんじゃ)石灯籠(いしどうろう)狛犬(こまいぬ)などが、爆心地推定(ばくしんちすいてい)のための資料(しりょう)となった。