廃虚(はいきょ)の街に入る

生物班(せいぶつはん)撮影(さつえい)

 生物班(せいぶつはん)は、撮影隊(さつえいたい)の中で最も早く9月21日に広島入りし、10月3日まで撮影(さつえい)を行った。この(はん)には理化学研究所研究員の中山弘美氏が同行。原子爆弾(げんしばくだん)放射線(ほうしゃせん)が植物にどのような影響(えいきょう)(あた)えるかを調査(ちょうさ)した。


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熱線を受けたヒイラギの葉

1945年(昭和20年)10月2日皆実町(みなみまち)三丁目 広島高等学校(こうとうがっこう)爆心地(ばくしんち)から2,690m
別の葉が熱線をさえぎった部分は、焼けるのを(まぬが)れ、葉のふちの(かげ)が下の葉に残っている。

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護国神社(ごこくじんじゃ)付近(ふきん)での植物調査(しょくぶつちょうさ)

1945年(昭和20年)9月28日 基町(もとまち)
爆心地(ばくしんち)から約250m 
中山氏の調査(ちょうさ)の様子を映像(えいぞう)(おさ)めたもの。中山氏は、爆心地(ばくしんち)付近(ふきん)などを歩き、ヒマとエビスグサに異常(いじょう)が見られることを発見した。

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地中の生物の調査(ちょうさ)

1945年(昭和20年)10月 細工町
爆心地(ばくしんち)付近(ふきん)のミミズを採取(さいしゅ)している様子。特に異常(いじょう)は見つからなかった。しかし、学術調査団(がくじゅつちょうさだん)調査(ちょうさ)では、鳥やウサギなどが出血、脱毛(だつもう)して死んだ例を確認(かくにん)している。

 


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原爆被害(げんばくひがい)調査日誌(ちょうさにっし)

中山弘美氏の日誌(にっし)。広島には9月21日から30日まで滞在(たいざい)する。調査内容(ちょうさないよう)撮影(さつえい)の様子が、図も使用しながら克明(こくめい)に記されている。

   

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映画(えいが)撮影場面(さつえいばめん)のスケッチ(複製(ふくせい)

生物班(せいぶつはん)のスタッフとして広島へ入った鈴木喜代治氏が(えが)いたスケッチ。映画(えいが)の場面が(えが)かれ、簡単(かんたん)な説明も記されている。