はじめに

 1945年(昭和20年)8月6日、広島に何が起こったのか。その事実を知ろうとする時、当時を記録した写真や映像(えいぞう)貴重(きちょう)資料(しりょう)となる。中でも、1945年(昭和20年)に撮影(さつえい)された原爆被災(げんばくひさい)記録映画(きろくえいが)「広島・長崎(ながさき)における原子爆弾(げんしばくだん)影響(えいきょう)」は、被爆(ひばく)惨状(さんじょう)撮影(さつえい)した数少ない映像資料(えいぞうしりょう)である。
 この映画(えいが)は、日本映画社(えいがしゃ)主導(しゅどう)製作(せいさく)が始められたものの、途中(とちゅう)、米軍による干渉(かんしょう)を受け、その管理下での完成を余儀(よぎ)なくされた。完成後、作品は米国へ送られ、長く一般(いっぱん)の人たちの目に()れることはなかった。日本へ返還(へんかん)されたのは、被爆(ひばく)から22年たった1967年(昭和42年)のことだった。展示会(てんじかい)では、映画(えいが)製作(せいさく)に関わった人たちの資料(しりょう)を中心に、製作(せいさく)の始まりからこの映画(えいが)がたどった軌跡(きせき)紹介(しょうかい)製作者(せいさくしゃ)の思いを受け止め、被爆(ひばく)の実相を後世に引き()ぐことの大切さを実感してもらいたい。

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原爆被災(げんばくひさい)記録映画(きろくえいが)「広島・長崎(ながさき)における原子爆弾(げんしばくだん)影響(えいきょう)

映画(えいが)の大部分が、1945年(昭和20年)9月から10月にかけての撮影(さつえい)物理編(ぶつりへん)医学編(いがくへん)生物編(せいぶつへん)など広島・長崎(ながさき)合わせて19巻(19かん)全巻(ぜんかん)で3時間近い。製作(せいさく)途中(とちゅう)から、米国戦略爆撃(せんりゃくばくげき)調査団(ちょうさだん)委嘱(いしょく)を受ける形で製作(せいさく)されたため、ナレーションや字幕(じまく)はすべて英語で編集(へんしゅう)されている。