原爆被災記録映画の製作へ
広島壊滅の報を受け、ニュース映画を一手に製作していた日本映画社は、被爆直後からカメラマンを現地に派遣。広島の惨状を映像に収めた。また、同社の文化映画部のスタッフから、原爆被災記録映画を撮影しようという動きも起こる。9月上旬には、社内で映画製作が正式に決定。終戦により社内も混乱する中、関係者は、広島・長崎の実態を記録しておきたいという思いから撮影に向けての準備を進めた。
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製作スタッフが単身調査に向かったころの広島
1945年(昭和20年)9月12日
撮影のための準備が進む中、製作スタッフの伊東寿恵男氏が、9月7日、広島・長崎へ向けて出発。広島では、焼け跡を歩き、映画の撮影に思いをめぐらすと共に県庁を訪れ、近く撮影班など製作スタッフの一団が来広することを伝えた。
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映画の監修にあたった仁科芳雄氏
日本映画社内で映画撮影が正式に決まると、相原秀二氏は被爆の実態を正確かつ科学的に記録するという思いから、監修を原子物理学の第一人者であった理化学研究所の仁科芳雄氏に依頼した。 |
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原子爆弾災害調査研究特別委員会の設置
映画の監修を受けた仁科氏は、映画製作には広く学界を動員することが必要と感じ、文部省へ連絡する。9月14日、文部省の学術研究会議に「原子爆弾災害調査研究特別委員会」が設置され、学術調査団として、約200名の調査員を広島、長崎へ派遣することが計画された。同じ頃、日本映画社内でも33名の映画製作スタッフの編成が決まる。撮影班は、生物班、物理班、土木建築班、医学班、ニュース及び遊撃班の5班に分かれた。また、映画製作は、委員会の補助機関として、現地での撮影を行うことになった。 |
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映画製作の原案
当初から映画製作に関わった相原秀二氏がまとめたもの。被害の実態をできるだけ正確かつ科学的に記録するという思いが記されている。 |
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