米軍管理下での製作とフィルムの接収
映画撮影が9月下旬に広島・長崎で始まるころ、国内では連合国軍による占領政策が進んでいた。長崎では進駐軍の干渉を受け、撮影中止を余儀なくされる。製作スタッフは、撮影再開のため、文部省や監修者である仁科芳雄氏を通じて米軍との交渉を行う。しかし、12月17日、連合国最高指令官総指令部(GHQ)はフィルムの提出
を命令。GHQに出頭した相原秀二氏は、フィルムが
未編集であり、映画製作の継続を訴えた。米国側はこれを受け入れ、映画は戦略爆撃調査団の委嘱を受ける形で完成を迎える。
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長崎での撮影再開
1945年(昭和20年)12月~1946年(昭和21年)1月長崎市本尾町 浦上天主堂 爆心地から500m
長崎での二次撮影のため、製作スタッフと学術調査団の調査員は、12月22日に東京駅を出発。現地では、米軍の軍人が撮影に同行した。撮影に対する干渉はなく、年を越して1月下旬まで撮影が行われた。 |
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浦上天主堂での撮影
1945年(昭和20年)12月~1946年(昭和21年)1月
長崎市本尾町 浦上天主堂
爆心地から500m
製作スタッフのカメラの後ろには、倒壊した浦上天主堂の鐘楼が見える。長崎では、放射線測定、熱など広島と同様のテーマで撮影は進んだ。撮影終了後は、空路東京へ向い、広島市内を上空から撮影している。 |
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長崎での撮影許可(英文)
12月17日には撮影したフィルムの提出が命じられ、映画製作の継続が危ぶまれた。しかし、交渉の結果、戦略爆撃調査団の委嘱という形で撮影が許可された。この資料によると、米軍から映画製作のための長崎での調査と撮影が許可され、滞在中の便宜が図られている。 |