原爆げんばくによる広島の被災ひさい状況じょうきょう
(1945年8月6日~12月まつ)を撮影さつえいした人たち

<記録映画製作>

撮影さつえい
(当時の職務しょくむ

撮影さつえい

撮影さつえい
枚数まいすう

撮影さつえい状況じょうきょうやその後の経緯けいい

菊池(きくち) 俊吉(しゅんきち)
(東方社カメラマン)

10月

1-20日

860

文部省(もんぶしょう)学術(がくじゅつ)研究会議(かいぎ)の原子爆弾(ばくだん)災害(さいがい)調査(ちょうさ)研究特別(とくべつ)委員会に同行。日本映画(えいが)社の原爆(げんばく)記録(きろく)映画(えいが)で「医学(はん)」のスチル撮影(さつえい)担当(たんとう)。広島赤十字病院や逓信(ていしん)病院などで患者(かんじゃ)らを撮影(さつえい)袋町(ふくろまち)国民(こくみん)学校の(かべ)に書かれた家族の安否(あんぴ)(たず)ねる伝言(でんごん)写真も撮影(さつえい)

林 重男
(同)

10月
1-10日

232

日映(にちえい)からのスチル撮影(さつえい)派遣(はけん)要請(ようせい)(おう)じた。「物理(はん)」を担当(たんとう)。広島商工会議(かいぎ)所や(きゅう)中国新聞本社の屋上から廃虚(はいきょ)を360度パノラマで撮影(さつえい)。1982年に「反核(はんかく)・写真運動」を結成(けっせい)

田子 恒男(つねお)
(東方社カメラマン助手)

10月
上旬(じょうじゅん)

23

菊池(きくち)、林両氏(りょうし)の助手として同行。爆心(ばくしん)地の調査(ちょうさ)に当たる田中(ゆたか)・東京帝国(ていこく)大学教授(きょうじゅ)らを撮影(さつえい)

三木 (しげる)(日本映画(えいが)社、原爆(げんばく)記録(きろく)映画(えいが)撮影(さつえい)担当(たんとう)

207

「土木建築(けんちく)(はん)」を担当(たんとう)原爆(げんばく)記録(きろく)映画(えいが)は米(ぐん)指揮(しき)の下、翌年(よくねん)5月完成(かんせい)したが接収(せっしゅう)。しかし、ラッシュプリントは三木()(いとな)現像(げんぞう)所に(かく)された。

山中 真男
(同)

2

「医学(はん)」の撮影(さつえい)担当(たんとう)し、スチル写真も()った。大学ノート表紙に「原爆(げんばく)撮影(さつえい)日誌(にっし)」と書いて行動を詳細(しょうさい)記録(きろく)


<軍所属>

木村 権一(ごんいち)
陸軍(りくぐん)船舶(せんぱく)練習部)

8月6日-

18

陸軍(りくぐん)船舶(せんぱく)練習部から、さく(れつ)(やく)15分後の原子雲3(まい)と、炎上(えんじょう)する市中心(がい)を3(まい)組みで撮影(さつえい)。8月下旬(げじゅん)に入った東京帝国(ていこく)大学医学部の都築(つづき)正男教授(きょうじゅ)要請(ようせい)急性(きゅうせい)放射線(ほうしゃせん)障害(しょうがい)患者(かんじゃ)らを(おさ)める。

尾木(おぎ) 正己(まさみ)
(くれ)海軍(かいぐん)工廠(こうしょう)火工部所属(しょぞく)

8月
6日-20日

22

(くれ)海軍(かいぐん)工廠(こうしょう)から、さく(れつ)(やく)40分後の原子雲を撮影(さつえい)救援(きゅうえん)(たい)(くわ)わって7日に入り、市内の惨状(さんじょう)(おさ)めた。

小平 信彦(のぶひこ)
陸軍(りくぐん)技術(ぎじゅつ)大尉(たいい)

8月6日

5

沖合(おきあい)金輪島(かなわじま)野戦(やせん)船舶(せんぱく)(しょう)修理(しゅうり)部から(やく)15分後の原子雲5(まい)撮影(さつえい)

斎藤(さいとう) 実

8月6日

1

入院先の(くれ)海軍(かいぐん)病院から撮影(さつえい)した原子雲が1957年7月31日(づけ)産経新聞(さんけいしんぶん)掲載(けいさい)

岸田 貢宜(みつぎ)
(広島師団(しだん)司令(しれい)報道(ほうどう)(はん)

8月
7日-12日

14

6日入市。翌日(よくじつ)爆心(ばくしん)地東480mの自宅(じたく)(あと)からくすぶる市中心(がい)(もっと)も早く撮影(さつえい)し、紙屋町交差点(こうさてん)を行く救援(きゅうえん)(たい)(おさ)めた。松重(まつしげ)美人()原爆(げんばく)写真の保存(ほぞん)()()けて「広島原爆(げんばく)被災(ひさい)撮影(さつえい)者の会」を1978年に結成(けっせい)

尾糠(おぬか) 政美(まさみ)
陸軍(りくぐん)船舶(せんぱく)司令(しれい)部写真(はん)

8月7日-

8

船舶(せんぱく)司令(しれい)部で被爆(ひばく)翌日(よくじつ)から、行方不明(ふめい)となった母を(さが)しながら救護(きゅうご)所を撮影(さつえい)。ネガは敗戦(はいせん)後に(ぐん)命令(めいれい)廃棄(はいき)

川原 四儀(よつぎ)
(同)

8月9日-

25

東京第一陸軍(りくぐん)病院の軍医(ぐんい)(だん)に同行して9日、市中心部の惨状(さんじょう)臨時(りんじ)救護(きゅうご)所を撮影(さつえい)。写真は報告(ほうこく)書に添付(てんぷ)された。ネガは廃棄(はいき)命令(めいれい)を受けたが23(まい)(のこ)した。

陸軍(りくぐん)船舶(せんぱく)司令(しれい)部写真(はん)

8月7日-

45

木村()()(ぬか)()、川原()らが撮影(さつえい)したと推測(すいそく)陸軍(りくぐん)(しょう)第2次調査(ちょうさ)(はん)として14日に入った()園生(けい)()()が1973年に原対(きょう)提供(ていきょう)。「極秘(ごくひ)」「船舶(せんぱく)軍医(ぐんい)部」と押印(おういん)

三井(みつい) 再男(まさお)
海軍(かいぐん)技術(ぎじゅつ)大佐(たいさ)

8月8日-

16

(くれ)海軍(かいぐん)工廠(こうしょう)部隊(ぶたい)(ひき)いて入市。「昭和二十年八月八日、(ぐん)極秘(ごくひ) 八月六日 広島空襲(くうしゅう)被害(ひがい)状況(じょうきょう)調査(ちょうさ)報告(ほうこく)概要(がいよう)」に爆心(ばくしん)地写真を収録(しゅうろく)。ネガは(ぐん)命令(めいれい)廃棄(はいき)

大橋 完造(かんぞう)
陸軍(りくぐん)憲兵(けんぺい)学校軍医(ぐんい)

8月12日

6

新型(しんがた)爆弾(ばくだん)」投下を聞いて東京・中野から10日に仁保(にほ)町(南区)に帰郷(ききょう)。光道国民(こくみん)学校から三篠(みささ)町の惨状(さんじょう)撮影(さつえい)し、1977年に市へ寄贈(きぞう)(ほう)じられたが、所在(しょざい)不明(ふめい)

藤田(ふじた) 明孝(あきたか)
(中国憲兵(けんぺい)(たい)司令(しれい)部)

9月

7

撃墜(げきつい)されて広島で捕虜(ほりょ)となり、(とら)われていた憲兵(けんぺい)(たい)司令(しれい)部で被爆(ひばく)死した米兵(べいへい)(とむら)い、敗戦(はいせん)後に()てた墓標(ぼひょう)などを(おさ)めたプリントを1978年に公開。



<研究者>

山崎(やまざき) 文男
(理化学研究所員)

8月30-
9月5日

3

陸軍(りくぐん)(しょう)要請(ようせい)放射能(ほうしゃのう)測定(そくてい)などに当たる中で撮影(さつえい)爆心(ばくしん)一帯(いったい)を9月4日に()ったプリントが現存(げんそん)

(すげ) 義夫(よしお)
(東京帝国(ていこく)大学教授(きょうじゅ)

10月
5日、14日

21

文部省(もんぶしょう)学術(がくじゅつ)研究会議(かいぎ)の原子爆弾(ばくだん)災害(さいがい)調査(ちょうさ)研究特別(とくべつ)委員会に物理学者として参加(さんか)し、助手らが()った爆心(ばくしん)地などの光景(こうけい)(おさ)めたプリントを保存(ほぞん)

渡辺(わたなべ) 武男(たけお)
(同)

10月
11-13日

50

調査(ちょうさ)研究特別(とくべつ)委員会の「地学(はん)」として、()けた(かわら)などを収集(しゅうしゅう)し、爆心(ばくしん)地の島病院を中心にパノラマ写真も撮影(さつえい)した。


<米国戦略(せんりゃく)爆撃(ばくげき)調査(ちょうさ)(だん)
H. J.ピーターソン
(米海軍(かいぐん)写真(はん)

11月

105

海軍(かいぐん)写真(はん)所属(しょぞく)。1945年11月、米国戦略(せんりゃく)爆撃(ばくげき)調査(ちょうさ)(だん)に同行して広島を撮影(さつえい)


被爆(ひばく)前の広島>
松本(まつもと) 若次(わかじ)
(広島写真館)

1927〜1942

(やく)1万

1889年、広島県生まれ。1906年渡米(とべい)、1927年帰国。帰国後、1942年まで広島市中区で「広島写真館」を営業(えいぎょう)し、当時の広島を写真に(のこ)す。


西本雅実(まさみ)原爆(げんばく)記録(きろく)写真〜(うず)もれた史実(しじつ)検証(けんしょう)する」(『広島平和記念(きねん)資料館(しりょうかん)資料(しりょう)調査(ちょうさ)研究会研究報告(ほうこく)』第4号、2008年)を(もと)に、企画(きかく)(てん)紹介(しょうかい)した写真の撮影(さつえい)者を追加(ついか)して作成(さくせい)

広島、1945

-写真が伝える原爆被害-