被爆(ひばく)前の広島

古くから交通の要衝(ようしょう)であった広島は、昭和の(はじ)めには人口20万人を数え、中国地方における政治(せいじ)経済(けいざい)の中心(てき)都市でした。多くの教育機関(きかん)を有する学都であり、国内有数の(ぐん)都でもありました。軍人(ぐんじん)や当時植民(しょくみん)地だった朝鮮(ちょうせん)台湾(たいわん)からの人々も生活していました。(まち)のにぎわいは絵はがきにも(えが)かれ、写真や映像(えいぞう)もその活力あふれる姿(すがた)(つた)えています。しかし、戦争(せんそう)影響(えいきょう)がさまざまな形で人々の生活に入り()んできていました。

福屋百貨店(ひゃっかてん)前の電車通り 八丁堀(はっちょうぼり) 撮影(さつえい)松本(まつもと) 若次(わかじ)

絵はがきに見る広島名所


すずらん(とう)が目を引く本通り
寄贈(きぞう)清水(しみず) 光久(てるひさ)

大正時代に誕生(たんじょう)した、広島を代表する繁華(はんか)(がい) 「新天地」
寄贈(きぞう)河原崎(かわらざき) 堅一(けんいち)

相生橋と広島県産業(さんぎょう)奨励(しょうれい)館(現在(げんざい)原爆(げんばく)ドーム)
寄贈(きぞう)/川上 迪子(みちこ)

広島文理科大学・広島高等師範(しはん)学校(後の広島大学)
寄贈(きぞう)清水(しみず) 光久(てるひさ)

日清(にっしん)戦争(せんそう)時の大本営(だいほんえい)
寄贈(きぞう)浜本(はまもと) 重美(しげみ)

広島、1945

-写真が伝える原爆被害-