原爆げんばくによる広島の被災ひさい状況じょうきょう
(1945年8月6日~12月まつ)を撮影さつえいした人たち

<市民>

撮影さつえい
(当時の職務しょくむ

撮影さつえい

撮影さつえい
枚数まいすう

撮影さつえい状況じょうきょうやその後の経緯けいい

山田 精三(せいぞう)
(広島三中生徒(せいと)・中国新聞社)

8月6日

2

府中(ふちゅう)町の水分峡(みくまりきょう)へ友人と散策(さんさく)中、さく(れつ)(やく)2分後の原子雲を撮影(さつえい)(もっと)も早い原爆(げんばく)雲といわれ、2カット目はカメラのファインダーに(おさ)まらなかった。

松重(まつしげ) 三男
(広島県職員(しょくいん)・レントゲン技師(ぎし)

8月6日

4

安佐(あさ)(ぐん)古市町の自宅(じたく)閃光(せんこう)を感じ、避難(ひなん)した近くの神田橋から原子雲を2(まい)、正午ごろ火炎(かえん)(おお)われる市内を(おさ)める。被災(ひさい)者を乗せて北に向かうトラックも撮影(さつえい)

深田 敏夫(としお)
崇徳(そうとく)中学生徒(せいと)

8月6日、
9月

5

陸軍(りくぐん)兵器(へいき)補給(ほきゅう)(しょう)被爆(ひばく)。2階の(まど)から、さく(れつ)(やく)5〜10分後の原子雲4(まい)連続(れんぞく)撮影(さつえい)した。他に大芝(おおしば)町(西区)の廃虚(はいきょ)()った。

北村 久夫(ひさお)
(筆製造(せいぞう)業)

8月6日

1

南東(やく)13km、熊野(くまの)町の自宅(じたく)(けん)作業場から(やく)20分後の原子雲を撮影(さつえい)

織田(おだ) 吾郎(ごろう)
食糧(しょくりょう)生産(せいさん)指導(しどう)

8月6日

3

(やく)40km、現在(げんざい)安芸(あき)高田市の自宅(じたく)から山の南向こうに上る原子雲を撮影(さつえい)

鴉田(からすだ) 藤太郎(とうたろう)
傷痍軍人(しょういぐんじん)広島療養(りょうよう)勤務(きんむ)

8月6日

1

北東(やく)25km、現在(げんざい)の東広島市にあった傷痍軍人(しょういぐんじん)広島療養(りょうよう)所から原子雲を撮影(さつえい)。午後2時ごろ救援(きゅうえん)に向かった。

石井(いしい) 治三(はるそう)

8月6日

1

(やく)22kmの(くれ)阿賀(あが)自宅(じたく)近くの裏山(うらやま)から(やく)30分後に撮影(さつえい)

不明(ふめい)

8月6日

1

海田市町の陸軍(りくぐん)需品(じゅひん)(しょう)から撮影(さつえい)したとみられる(やく)20〜30分後の原子雲が、「広島原爆(げんばく)戦災(せんさい)()第三(かん)」に収録(しゅうろく)

川本 俊雄(としお)
(県警察(けいさつ)部写真(はん)

8月8日-

101

8日、本川国民(こくみん)学校校庭での火葬(かそう)撮影(さつえい)敗戦(はいせん)後は市中心部の惨状(さんじょう)等を撮影(さつえい)した。

佐々木(ささき) 雄一郎(ゆういちろう)
(写真家)

8月18日-

186

内閣(ないかく)情報(じょうほう)局でグラフ()撮影(さつえい)(たずさ)わっていたが、家族13人を原爆(げんばく)(うしな)い、退職(たいしょく)金代わりのフィルムを(たずさ)えて帰郷(ききょう)。63(さい)()くなるまで被爆(ひばく)地を()(つづ)けた。

佐渡(さど) 次郎(じろう)
海軍(かいぐん)から復員(ふくいん)

8月
18日ごろ

2

的場町(まとばちょう)自宅(じたく)(あと)から広島駅に向けての一帯(いったい)(おさ)めた。

松岡(まつおか) 泰三(たいぞう)
(東洋工業勤務(きんむ)

8月
中旬(ちゅうじゅん)

7

的場町(まとばちょう)被爆(ひばく)比治山(ひじやま)から見た市街地(しがいち)国泰寺(くにたいじ)(たお)れた大クスノキ等を撮影(さつえい)した。

平松(ひらまつ) 高市(こういち)
(広島工()助教授(じょきょうじゅ)

8月
中旬(ちゅうじゅん)

16

己斐(こい)の下宿先で被爆(ひばく)。全半壊(はんかい)した広島工専(こうせん)全壊(ぜんかい)全焼(ぜんしょう)(さい)となった一帯(いったい)撮影(さつえい)

谷原 好男(よしお)
(写真現像(げんぞう)

8月
下旬(げじゅん)

35

福岡(ふくおか)県で陸海(りくかい)(ぐん)の写真現像(げんぞう)担当(たんとう)。父が原爆(げんばく)死。19日以降(いこう)、広島城跡(じょうせき)一帯(いったい)撮影(さつえい)

森本 太一
(写真業)

8月
下旬(げじゅん)

37

市内で被爆(ひばく)。17日、大竹市に疎開(そかい)していた家族(たく)から広島に入り撮影(さつえい)

井上(いのうえ) 直通(なおみち)
帝国(ていこく)銀行勤務(きんむ)

8月
30日-9月上旬(じょうじゅん)

10

東白島町の自宅(じたく)被爆(ひばく)。本店への被害(ひがい)状況(じょうきょう)報告(ほうこく)(もと)められ、破壊(はかい)された帝銀(ていぎん)広島支店(してん)撮影(さつえい)。他に路面電車が復旧(ふっきゅう)した相生橋なども撮影(さつえい)した。

北 (いさお)
(広島中央気象台(きしょうだい)勤務(きんむ)

8月
(まつ)

5

熱線(ねっせん)で着火した山陽線の(さく)(おさ)めたほか、(きゅう)文部省(もんぶしょう)学術(がくじゅつ)調査(ちょうさ)(だん)に同行して撮影(さつえい)

中川 正彦(まさひこ)
(広島駅出札(しゅっさつ)係)

9月

6

蛇腹(じゃばら)式カメラと大竹市の自宅(じたく)にあったフィルムで、護国(ごこく)神社の廃虚(はいきょ)などを撮影(さつえい)

佐藤(さとう) 盛雄(もりお)
宗教(しゅうきょう)者)

9月3日

1

河原町(かわらまち)の金光教広島教会の()(あと)から南西方面を撮影(さつえい)

黒石 勝
(広島赤十字病院レントゲン技手(ぎしゅ)

10月

4

8月7日、市内に(もど)収容(しゅうよう)者らを手当て。後に初代(しょだい)原爆(げんばく)病院長となる重藤(しげとう)文男()指示(しじ)同僚(どうりょう)と主に患者(かんじゃ)撮影(さつえい)

岸本 吉太(よした)
(写真館経営(けいえい)

10月-

50

原爆(げんばく)で長女(8(さい))を(うしな)いカメラを手にする気になれなかったが、中国配電の依頼(いらい)で市内一円の電気施設(しせつ)被害(ひがい)撮影(さつえい)。本店屋上から復興(ふっこう)期の広島市を()(つづ)けた。

野田 (つとむ)
陸軍(りくぐん)被服(ひふく)支廠(ししょう)勤務(きんむ)

11月ごろ

5

陸軍(りくぐん)被服(ひふく)支廠(ししょう)被爆(ひばく)。島根県内の出張所(しゅっちょうしょ)残務(ざんむ)整理終了(しゅうりょう)後、本通りや八丁堀(はっちょうぼり)撮影(さつえい)

田丸 義明(よしあき)

11

広島瓦斯(がす)本社ビルなどを(おさ)めたプリントが1963年に資料館(しりょうかん)へ。撮影(さつえい)経緯(けいい)不明(ふめい)

林 寿磨(かずま)
(福屋勤務(きんむ)

14

南観音( みなみかんのん)町で被爆(ひばく)。家族が疎開(そかい)していた現在(げんざい)の東広島市から広島に出ては撮影(さつえい)した。

平原 (つたえ)
(中国配電勤務(きんむ)

12月
中旬(ちゅうじゅん)

13

尾道(おのみち)営業(えいぎょう)勤務(きんむ)。サツマイモと交換(こうかん)したフィルムを持参(じさん)し、広島駅などを撮影(さつえい)


<新聞・通信社>

松重(まつしげ) 美人
(中国新聞カメラマン・中国(ぐん)管区(かんく)司令(しれい)報道(ほうどう)(はん)

8月6日、
10月

13

西翠(にしみどり)町で被爆(ひばく)御幸橋(みゆきばし)などで市民(しみん)惨状(さんじょう)5(まい)撮影(さつえい)。米の写真()ライフ1952年9月29日号に掲載(けいさい)される。10月には万代橋に()()けられた(かげ)なども()った。

水野 十三
(中部日本新聞写真部)

8月9日

72

9日に入市。36(まい)()りフィルム2本で産業(さんぎょう)奨励(しょうれい)館や()(のこ)ったバスなどを()ったという。ネガは敗戦(はいせん)後に本社ボイラー室で()やしたと、生前に証言(しょうげん)している。

国平 幸男
(毎日新聞大阪(おおさか)本社写真部)

8月9日

41

9日に取材(しゅざい)し、広島東警察(けいさつ)(しょ)缶詰(かんづめ)(るい)(はこ)()まれるカットなど2(まい)が11日(づけ)大阪(おおさか)(ばん)掲載(けいさい)被爆(ひばく)直後の広島の写真が掲載(けいさい)された(もっと)も早い事例(じれい)

宮武(みやたけ) (はじめ)
(朝日新聞大阪(おおさか)本社写真部)

8月
10-12日

119

中部(ぐん)管区(かんく)司令(しれい)宣伝(せんでん)工作(たい)として9日夕、入市。大阪(おおさか)本社(ばん)16日(づけ)および9月4日(づけ)掲載(けいさい)占領(せんりょう)下にネガを守り、1952年のアサヒグラフ8月6日号にも収録(しゅうろく)

中田 左都男(さつお)
同盟(どうめい)通信(つうしん)大阪(おおさか)支社(ししゃ)記者)

8月
10、11日

35

大阪(おおさか)帝国(ていこく)大学の調査(ちょうさ)(だん)に同行して10日に入る。(きゅう)中国新聞社屋上から()った廃虚(はいきょ)の写真が、8月19日(づけ)の朝日、毎日、読売、中日、8月31日(づけ)の北海道の各紙(かくし)掲載(けいさい)

八田 国吉(くによし)
(朝日新聞西部本社写真部)

9月3日

1

昭和天皇(てんのう)派遣(はけん)した(えい)(つもる)寅彦(とらひこ)侍従(じじゅう)が9月3日に廃虚(はいきょ)視察(しさつ)する光景(こうけい)撮影(さつえい)。9月7日(づけ)大阪(おおさか)本社(ばん)掲載(けいさい)

山上 圓太郎(えんたろう)
(毎日新聞大阪(おおさか)本社写真部)

9月
11、12日

40

9月13日(づけ)大阪(おおさか)本社(ばん)(はじ)めて掲載(けいさい)された広島県産業(さんぎょう)奨励(しょうれい)館を撮影(さつえい)都築(つづき)正男・東京大教授(きょうじゅ)が米軍医(ぐんい)(だん)被爆(ひばく)した市民(しみん)らを診察(しんさつ)する光景(こうけい)なども記録(きろく)した。

松本(まつもと) 栄一(えいいち)
(朝日新聞カメラマン)

9月
18-25日

157

枕崎(まくらざき)台風翌日(よくじつ)の9月18日に入市。爆心(ばくしん)地から全壊(ぜんかい)全焼(ぜんしょう)区域(くいき)(のこ)った建造(けんぞう)物の被害(ひがい)記録(きろく)した。米(ぐん)のネガ提出(ていしゅつ)命令(めいれい)に対し、個人(こじん)で守り通した。

富重(とみしげ) 安雄(やすお)
(朝日新聞西部本社写真部)

9月
下旬(げじゅん)

9月下旬(げじゅん)、広島を撮影(さつえい)翌年(よくねん)8月6日の原爆(げんばく)1周忌(しゅうき)墓参(ぼさん)などの写真が現存(げんそん)

松尾(まつお) 英世(ひでよ)
(朝日新聞大阪(おおさか)本社写真部)

9月

1

広島電鉄が運行を再開(さいかい)し、天井(てんじょう)にハエ取り紙を()けた路面電車内を撮影(さつえい)。9月21日(づけ)大阪(おおさか)本社(ばん)掲載(けいさい)

山本 儀江(よしえ)
(中国新聞カメラマン)

11月

3

西観音町(にしかんのんまち)被爆(ひばく)。大手町に(のこ)った煙突(えんとつ)をシルエット撮影(さつえい)後輩(こうはい)の谷川()共同(きょうどう)して、(きゅう)本社屋上から南方向に、廃虚(はいきょ)を2(まい)組み写真で撮影(さつえい)

谷川 長次
(同)

11月

3

復員(ふくいん)し、沖合(おきあい)似島(にのしま)まで見渡(みわた)せる廃虚(はいきょ)を山本()撮影(さつえい)

伊久(これひさ) 茂視(しげみ)
(朝日新聞西部本社写真部)

12月

3

11月から広島支局(しきょく)勤務(きんむ)。駅前の闇市(やみいち)やバラック建設(けんせつ)などを撮影(さつえい)



広島、1945

-写真が伝える原爆被害-