(きず)を負った人々
救護(きゅうご)所にて-

 (きず)を負った人たちは、臨時(りんじ)救護(きゅうご)所となった国民(こくみん)学校などへ向かい、あるいは運ばれました。しかし、治療(ちりょう)する医師(いし)大勢(たいせい)死亡(しぼう)し、薬もすぐに足りなくなりました。救護(きゅうご)所は、十分な治療(ちりょう)も受けられないまま横たわる人たちであふれました。

市立第一国民(こくみん)学校

比治山(ひじやま)東側(ひがしがわ)の山すそ、段原(だんばら)地区にあった市立第一国民(こくみん)学校(爆心(ばくしん)地から2,600m、現在(げんざい)の市立段原(だんばら)中学校)は、倒壊(とうかい)焼失(しょうしつ)(まぬが)れた講堂(こうどう)や教室が救護(きゅうご)所となり、多くの負傷(ふしょう)者が収容(しゅうよう)されました。敷地(しきち)の一部は(かり)火葬(かそう)場として使われました。

大けがを負った子ども

 

8月7日〜20日
撮影(さつえい)陸軍(りくぐん)船舶(せんぱく)司令(しれい)部写真(はん) 寄贈(きぞう)御園生(みそのう) 圭輔(けいすけ)
提供(ていきょう)/広島原爆(げんばく)障害(しょうがい)対策(たいさく)協議(きょうぎ)

8月7日〜8月20日
撮影(さつえい)尾糠(おぬか) 政美(まさみ) 寄贈(きぞう)御園生(みそのう) 圭輔(けいすけ)
提供(ていきょう)/広島原爆(げんばく)障害(しょうがい)対策(たいさく)協議(きょうぎ)

横たわる負傷(ふしょう)

8月7日 撮影(さつえい)尾糠(おぬか) 政美(まさみ) 提供(ていきょう)/広島原爆(げんばく)被災(ひさい)撮影(さつえい)者の会

似島(にのしま)

広島湾(ひろしまわん)()かぶ似島(にのしま)爆心(ばくしん)地から(やく)10km)には、陸軍(りくぐん)検疫(けんえき)所などの軍事(ぐんじ)施設(しせつ)があり、空襲(くうしゅう)などの非常時(ひじょうじ)には負傷(ふしょう)者を受け入れることになっていました。原爆(げんばく)直接(ちょくせつ)被害(ひがい)をほとんど受けなかった似島(にのしま)には、船に乗せられた負傷(ふしょう)者たちが大勢(たいせい)移送(いそう)されてきましたが、ここでもやはり十分な治療(ちりょう)はかないませんでした。

市内各地(かくち)救護(きゅうご)

学校以外(いがい)にも、倒壊(とうかい)(まぬが)れた建物(たてもの)が使用されたり、仮設(かせつ)テントの救護(きゅうご)所が(もう)けられたりしました。放射線(ほうしゃせん)による障害(しょうがい)症状(しょうじょう)赤痢(せきり)誤解(ごかい)され、福屋百貨店(ひゃっかてん)臨時(りんじ)伝染病(でんせんびょう)病院に指定されました。

福屋百貨店(ひゃっかてん)の中

8月9〜12日
八丁堀(はっちょうぼり) 爆心(ばくしん)地から740m
撮影(さつえい)宮武 甫(みやたけ はじめ) 提供(ていきょう)/朝日新聞社

福屋百貨店(ひゃっかてん)

8月8〜9日
八丁堀(はっちょうぼり) 爆心(ばくしん)地から740m
撮影(さつえい)/国平 幸男 提供(ていきょう)/毎日新聞社

太田川の堤防(ていぼう)設置(せっち)された広島陸軍(りくぐん)第二病院の臨時(りんじ)救護(きゅうご)所(上)と、中の負傷(ふしょう)者(下)

8月9日 (もと)町 爆心(ばくしん)地から1,150m
(上) 撮影(さつえい)/川原 四儀(よつぎ) 提供(ていきょう)/広島原爆(げんばく)被災(ひさい)撮影(さつえい)者の会
(下) 撮影(さつえい)/川原 四儀(よつぎ)

広島、1945

-写真が伝える原爆被害-