市中へ
捜索(そうさく)救援(きゅうえん)救護(きゅうご)
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被爆(ひばく)直後から、救援(きゅうえん)救護(きゅうご)のためや家族を(さが)すために市内に入ってくる人たちが大勢(たいせい)いました。早期に市内中心部に入った人たちもまた、原爆(げんばく)放射線(ほうしゃせん)影響(えいきょう)を受けました。

■入市する人々  

救援(きゅうえん)活動を行う人々

8月7日 横川三丁目 爆心(ばくしん)地から1,700m
撮影(さつえい)/岸田 貢宜(みつぎ) 提供(ていきょう)/岸田 哲平(てっぺい)

防毒(ぼうどく)マスク

(くれ)海軍(かいぐん)工廠(こうしょう)勤務(きんむ)していた唐川(からかわ)正さん(当時28(さい))は、弟の隆三(りゅうぞう)さんを(さが)すため、8月7日ごろ、この防毒(ぼうどく)マスクを着けて広島市に入りました。
寄贈(きぞう)唐川(からかわ) 隆三(りゅうぞう)

「十六年式防空(ぼうくう)防毒(ぼうどく)面((かぶと)(がた))ノ取扱(とりあつかい)()テ」

寄贈(きぞう)/天野 (きよし)

市内を移動(いどう)する

8月9日 小町 爆心(ばくしん)地から730m
撮影(さつえい)/岸田 貢宜(みつぎ) 提供(ていきょう)/岸田 哲平(てっぺい)

とび口

安村警防団(けいぼうだん)の中村(たくみ)美さん(当時45(さい))は、このとび口を使って、川に浮い(う )ていた死体を引き上げる作業をしました。
寄贈(きぞう)/中村 賢治(けんじ)

行き交う人々

後方の建物(たてもの)(げい)()銀行本店と住友銀行広島支店(してん)
8月9日 紙屋町 爆心(ばくしん)地から260m
撮影(さつえい)/岸田 貢宜(みつぎ) 提供(ていきょう)/岸田 哲平(てっぺい)

がれきの(まち)

8月中旬(ちゅうじゅん) 山口町 爆心(ばくしん)地から1,180m
撮影(さつえい)/川原 四儀(よつぎ) 提供(ていきょう)/広島原爆(げんばく)被災(ひさい)撮影(さつえい)者の会

広島、1945

-写真が伝える原爆被害-