(のこ)(きず)あと

 学校は9月1日から順次(じゅんじ)再開(さいかい)されました。戦時(せんじ)災害(さいがい)保護(ほご)(ほう)が定めていた救護(きゅうご)所の設置(せっち)期間は2か月間であったため、10月5日には多くの救護(きゅうご)所が閉鎖(へいさ)されました。
しかし、原爆(げんばく)による(きず)簡単(かんたん)()えることはありませんでした。爆風(ばくふう)火災(かさい)破壊(はかい)された建物(たてもの)はいまだその姿(すがた)(のこ)しており、負傷(ふしょう)した人たちは病院へ治療(ちりょう)に通っていました。9月になっても火葬(かそう)する光景(こうけい)(つづ)いていました。

被災(ひさい)2、3か月後  

爆心(ばくしん)付近(ふきん)(きゅう)銀行(がい)

11月 細工町 爆心(ばくしん)付近(ふきん) 撮影(さつえい)/米(ぐん)

段原(だんばら)地区

比治山(ひじやま)にさえぎられた段原(だんばら)地区も、多くの家が半壊(はんかい)しました。
10月6日〜11日 段原(だんばら)東浦(ひがしうら)
爆心(ばくしん)地から3,000m
撮影(さつえい)菊池(きくち) 俊吉(しゅんきち) 提供(ていきょう)菊池(きくち) 徳子(とくこ)

原爆(げんばく)被害(ひがい)調査(ちょうさ)

草津(くさつ)国民(こくみん)学校

被害(ひがい)の少なかった草津(くさつ)国民(こくみん)学校は被爆(ひばく)直後から救護(きゅうご)所となり、一時は3,000人を()える負傷(ふしょう)者が収容(しゅうよう)されました。引き取り手のない遺体(いたい)は校庭に(あな)()って火葬(かそう)されました。被爆(ひばく)2か月後でも、火葬(かそう)(あと)に白い骨片(こつへん)()らばっている様子が見えます。
市内の学校は9月から順次(じゅんじ)再開(さいかい)されましたが、火葬(かそう)(あと)がそのまま(のこ)されている場所もありました。
10月13日 草津東(くさつひがし)町 爆心(ばくしん)地から4,700m
撮影(さつえい)菊池(きくち) 俊吉(しゅんきち) 提供(ていきょう)菊池(きくち) 徳子(とくこ)

広島第一 陸軍(りくぐん)病院宇品(うじな)分院での調査(ちょうさ)

原爆(げんばく)被害(ひがい)調査(ちょうさ)するため米国の調査(ちょうさ)(だん)が9月に広島へやってきました。東京帝国(ていこく)大学の都築(つづき)正男博士(はかせ)も同行しました。
9月11日 宇品(うじな)町 爆心(ばくしん)地から4,160m
撮影(さつえい)/山上 (えん)太郎(たろう) 提供(ていきょう)/毎日新聞社

治療(ちりょう)(つづ)

広島赤十字病院

被爆(ひばく)建物(たてもの)破壊(はかい)されながらも、直後から多くの負傷(ふしょう)者を受け入れ、治療(ちりょう)してきた広島赤十字病院。臨時(りんじ)救護(きゅうご)所が閉鎖(へいさ)された後も治療(ちりょう)継続(けいぞく)しました。
10月4日 千田町一丁目 爆心(ばくしん)地から1,500m
撮影(さつえい)菊池(きくち) 俊吉(しゅんきち) 提供(ていきょう)菊池(きくち) 徳子(とくこ)

広島、1945

-写真が伝える原爆被害-