市中へ
捜索(そうさく)救援(きゅうえん)救護(きゅうご)
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安否(あんぴ)気遣(きづか) 治療(ちりょう)求め(もと )

収容(しゅうよう)名簿(めいぼ)を見入る人々

8月12日ごろ 紙屋町 爆心(ばくしん)地から260m
撮影(さつえい)/川原 四儀(よつぎ) 提供(ていきょう)/広島原爆(げんばく)被災(ひさい)撮影(さつえい)者の会

救護(きゅうご)所に向かう親子

大やけどを負った(つま)と子を父親が手押(てお)し車に乗せ、救護(きゅうご)所に向かっています。
8月9日〜12日
皆実町(みなみまち)二丁目 爆心(ばくしん)地から2,350m
撮影(さつえい)宮武(みやたけ) (はじめ) 提供(ていきょう)/朝日新聞社

1945年(昭和20年)8月7日(づけ) 広島県知事告諭(こくゆ)

市内 各所(かくしょ)掲示(けいじ)されました。被害(ひがい)は大きいが、それが戦争(せんそう)である、戦争(せんそう)は一日も休止することはない、おごった(てき)()(くだ)くことを(きも)(めい)じよ、と被災(ひさい)した市民(しみん)奮起(ふんき)(うなが)しています。
寄贈(きぞう)久行(ひさゆき) (ただし)

広島赤十字病院で手当を受ける少年

8月9日〜12日 千田町一丁目 爆心(ばくしん)地から1,500m
撮影(さつえい)宮武(みやたけ) (はじめ) 提供(ていきょう)/朝日新聞社

原爆(げんばく)診療(しんりょう)記事 昭和20年8月」

比治山(ひじやま)本町で開業医をしていた(つつみ)二郎(じろう)さん(当時66(さい))は被爆(ひばく)直後から負傷(ふしょう)者の治療(ちりょう)に当たりました。
寄贈(きぞう)(つつみ) ミツコ

(つつみ)さんの記事

十五日 晴
午後三時ごろ、正午のニュースで天皇陛下(てんのうへいか)()自身の放送あり。無条件(むじょうけん)降伏(こうふく)となったのを()く。そういう(わけ)で、いつもブーブー言って()んでくる(てき)飛行機(ひこうき)も来ない。ああ、戦争(せんそう)終止符(しゅうしふ)になった。
戦争(せんそう)が終わったとしたら空襲(くうしゅう)を受ける心配もない。今の今まで今後の生活をどうしようと(まよ)っていたのだが、これで心が決まった。このままで頑張(がんば)る、復興(ふっこう)だ、と急に勇気(ゆうき)が出て、(かた)(づけ)事も家の掃除(そうじ)()り合いが出てきた。
今日から近隣(きんりん)戦災(せんさい)者、田上母子が病院の診療(しんりょう)室に来た。田上さんの主人は六日の戦災(せんさい)火傷(やけど)の後、比治山(ひじやま)(ごう)で数日後に死亡(しぼう)した。田上さんはその後、(ごう)で生活していた人で、まことに気の(どく)だ。

坂本明命(よしただ)さんの日記

(あかつき)部隊(ぶたい)衛生(えいせい)(へい)だった坂本明命さん(当時35(さい))は被爆(ひばく)直後から被災(ひさい)者の治療(ちりょう)に当たりました。
寄贈(きぞう)/坂本 明命(よしただ)

坂本さんの日記

二〇年 八月十一日 土曜 晴
〜二十一日
自動車便(びん)井ノ口(いのくち)に着いた。早速、治療(ちりょう)に取りかかった。自分たちは十二日より五日市の国民(こくみん)学校を受け持つ事になり、毎日九名で通って行った。その間にもたくさんの方が()くなられた。
十五日、天皇陛下(てんのうへいか)()放送にて米(えい)降伏(こうふく)したとの事を聞き、がっかりして治療(ちりょう)の手も遅々(ちち)としてはかどらなかった。無念(むねん)のかぎり。その夜はどうしても(ねむ)れなかった。
十八日に(つま)からの便(たよ)りを野戦(やせん)病院で受け取った。みんな元気との由。しかし今日あたり広島の事を聞き心配している事だろう。

日記・記事(きじ)紹介(しょうかい)に当たっては、かな(づか)いを現代(げんだいのものに()え、適宜(てきぎ)要約(ようやく)しています。

広島、1945

-写真が伝える原爆被害-