はじめに

 1945年(昭和20年)8月6日、世界で(はじ)めて、広島に原子爆弾(ばくだん)が投下されました。原爆(げんばく)によって生じた熱線(ねっせん)爆風(ばくふう)放射線(ほうしゃせん)は、複雑(ふくざつ)(から)み合って、広島を壊滅(かいめつ)させ、多くの人を死に(いた)らしめました。生き(のこ)った人も心と体に(きず)を負い、社会も大きな打撃(だげき)を受けました。被爆(ひばく)から1945年(昭和20年)(まつ)までに死亡(しぼう)した人の数は(やく)14万人と推定(すいてい)されています。人々はこの5か月の間にどのようなことに直面したのでしょうか。そこにはどのような苦しみがあり、また、どのような努力(どりょく)があったのでしょうか。
企画(きかく)(てん)では、1945年(昭和20年)(まつ)までの5か月間に撮影(さつえい)された写真を中心に展示(てんじ)し、死と生が交錯(こうさく)した被爆(ひばく)後の広島の姿(すがた)と、そこで生きていった人々の姿(すがた)紹介 (しょうかい)します。

原爆げんばくは島病院の真上で
さくれつしました。
当日、手術しゅじゅつのため広島市を
はなれていた島かおる院長は
関係かんけい者の消息をもとめて
病院あと
伝言でんごんばんを立てました。

1945年(昭和20年)10月
細工町
撮影さつえい / 林 重男

広島、1945

-写真が伝える原爆被害-