生活をとりもどす努力(どりょく) 2

広島駅のプラットホームで列車を待つ人々

広島にいた部隊(ぶたい)の多くは9月から10月にかけて動員を解除(かいじょ)され、兵士(へいし)たちは故郷(こきょう)へ向かいました。
10月11日〜20日 松原(まつわら)町 爆心(ばくしん) 地から1,900m
撮影(さつえい)菊池(きくち) 俊吉(しゅんきち) 提供(ていきょう)菊池(きくち) 徳子(とくこ)

日本(ぐん)潜水艦(せんすいかん)

敗戦(はいせん)後、日本は連合(れんごう)国軍(こくぐん)占領(せんりょう)下に()かれます。中国地方には9月から進駐(しんちゅう)が始まり、(くれ)占領(せんりょう)(ぐん)拠点(きょてん)となりました。広島湾(ひろしまわん)似島(にのしま)周辺(しゅうへん)には、使われなくなった日本(ぐん)潜水艦(せんすいかん)放置(ほうち)されていました。
10月16日〜17日 似島(にのしま) 爆心(ばくしん)地から(やく)10km
撮影(さつえい)菊池(きくち) 俊吉(しゅんきち) 提供(ていきょう)菊池(きくち) 徳子(とくこ)

映画(えいが)に集まる人々

映画(えいが)上映(じょうえい)会が行われ、大勢(おおぜい)の人が集まっています。
11月 中国配電 爆心(ばくしん)地から680m
撮影(さつえい)提供(ていきょう) /H.J.ピーターソン

枕崎(まくらざき)台風

 1945年(昭和20年)9月17日、鹿児島(かごしま)県に上陸(じょうりく)した枕崎(まくらざき)台風は、九州地方を北上した後、本州を縦断(じゅうだん)しました。非常(ひじょう)に強い台風で、広島県にも大きな被害(ひがい)をもたらしました。大雨のため広島市域(しいき)はほとんど水浸(みずびた)しになり、20もの橋が流失(りゅうしつ)しました。広島県の死者は1,229人、行方不明(ふめい)者は783人。全国の死者2,473人、行方不明(ふめい)者1,283人のうち半数以上(いじょう)が広島県での被害(ひがい)でした。原爆(げんばく)によって都市機能(きのう)壊滅(かいめつ)した広島では、広島管区(かんく)気象台(きしょうだい)県庁(けんちょう)、市役所、新聞、ラジオといった(しょ)機関(きかん)復旧(ふっきゅう)が十分でなかったため、台風の情報(じょうほう)市民(しみん)届か(とど )ず、大きな被害(ひがい)を出すことになりました。
 被爆(ひばく)のわずか1か月後、原爆(げんばく)被害(ひがい)からの復旧(ふっきゅう)過程(かてい)にあった広島は水害(すいがい)見舞(みま)われ、大きな打撃(だげき)を受けました。


土石流が(おそ)った大野陸軍(りくぐん)病院

原爆(げんばく)負傷(ふしょう)した人たちは広島市の近隣(きんりん)の病院にも収容(しゅうよう)されており、市の南西にある佐伯(さいき)(ぐん)大野村((げん) 廿日市(はつかいち)市大野)の陸軍(りくぐん)病院にも100人近い患者(かんじゃ)が入院していました。この病院を、枕崎(まくらざき)台風による土石流が(おそ)(やく)200人が()くなりました。その中には、ここを拠点(きょてん)にしていた京都帝国(ていこく)大学原爆(げんばく)災害(さいがい)総合(そうごう)研究調査(ちょうさ)(はん)のメンバーも(ふく)まれていました。
10月14日 佐伯(さいき)(ぐん)大野村 撮影(さつえい)菊池(きくち) 俊吉(しゅんきち) 提供(ていきょう)菊池(きくち) 徳子(とくこ)


広島、1945

-写真が伝える原爆被害-