死者を弔う
原爆は多くの命を奪いました。残された人々は、身近な人の死に直面することになります。死を悼み、死者を弔おうと、人々は供養塔や慰霊碑を建てました。初めのころに作られたものは、木製の簡素なものでした。
似島の千人塚
推定1万人もの原爆による負傷者を収容した似島では、治療のかいなく亡くなった人が大勢いました。1945年(昭和20年)8月25日ごろ、陸軍検疫所の職員によって慰霊祭が行われ、「千人塚」と墨書きされた墓標が海岸に作られました。
10月16日〜17日 似島 爆心地から約10km
撮影/菊池 俊吉 提供/菊池 徳子 |
平和塔と元安川
現在の平和記念公園に、一時期「平和塔」というモニュメントが建てられていました。写真手前の元安川の川床には人骨が残っていました。
1948年 中島本町
爆心地から120〜280m
撮影/佐々木 雄一郎
提供/塩浦 雄悟 |
原爆ドーム近くに立てられた供養塔
1952年 猿楽町 爆心地から160m
撮影/佐々木 雄一郎
提供/塩浦 雄悟 |
弔辞
被爆から数えて「四十九日」に当たる9月22日、庚午南町では合同葬儀が営まれました。人々は原爆や敗戦という現実をどのように受け止めようとしていたのでしょうか。
寄贈/安光 覚遊 |
四十九日となる本日、合同葬儀を執行するに当たり、あの悲惨で残念な八月六日を思い出さずにはおれません。敵は世界初の原子爆弾を、わが広島の上空に落としました。一瞬にして広島が死と灰の街に化しまして、一挙に十数万の防備なき罪のない我々の家族を殺りくし尽しました。歴史的文化の薫り高い広島を一木一草も残さず焼き尽し、広島県も広島市もその機能を失いました。
今日もなお傷の腐敗や、強烈な熱線と同時に放射された毒による内臓疾患で多くの人たちが尊い生命を断たれつつあります。ああ、何という残念な事でしょう。
午前八時すぎと言えば、ちょうど朝の活動が始まっています。皆それぞれ部署に着いて元気はつらつと働いていた時です。敵はその時と場所とをねらった事は隠せません。即死を免れて逃げ帰った人たちも焼けただれ、骨折し、全身血みどろで、さらに黒い雨に打たれ、実にこの世の人とも思われぬ形相です。これらの人のうち治癒した人はまれで、ほとんどの人は次々に死んでゆかれました。ようやく家にたどり着き、家族に見守られながらついに亡くなられた人、白骨となって帰られた人、まだ帰らない人を思うにつけ、涙は止めどなく流れ、胸はしめつけられます。御家族の方々の胸中はどんなでしょう。お気の毒で申し上げる言葉もありません。
加えて一か月近くに及ぶ長雨は本日も降り続けて、その被害は昨年よりひどいと申します。ああ何という残念な事が度重なることでしょう。
もし原子爆弾の攻撃が続行されたなら、日本は壊滅していたでしょう。天皇陛下は終戦を決断されました。生き残った私たちは、困苦に耐え、国家につくして、戦災死の皆さまに報いねばなりません。どうか皆さま、安らかにお眠り下さい。
思う所の一端を述べて皆さまの霊への手向けに致します。
合掌礼
昭和二十年九月二十二日 |
資料の紹介に当たっては、かな遣いを現代のものに変え、適宜要約しています。