きかくてんをみよう
宮武甫撮影 (きず)つけられた人々-
宮武氏は8月8日午後大阪駅を出発し、9日夕方広島駅に到着(とうちゃく)。10、11日本格的(ほんかくてき)に写真撮影(さつえい)を行ない、4日後(12日と思われる。)帰阪(きはん)した。手記には、「顔や体を焼かれ衣服もまともにつけていない、ひん死の人たちがいっぱいコンクリートの(ゆか)収容(しゅうよう)され、声にならないうめき声に、私はカメラを持って立ちすくんだ。」とあるが、それでも広島在住(ざいじゅう)のカメラマンがカメラを向けることができなかった生々しい惨状(さんじょう)を記録している。
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右端が宮武氏、中部軍が野営(やえい)した広島城本丸(ほんまる)にて。後ろのがれきは国宝(こくほう)に指定されていた築城(ちくじょう)350年(あま)りの広島城天守閣(てんしゅかく)
■ヒロシマに入る
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広島駅
爆心地から約1,900m 松原町
中部軍司令部発行の身分(みぶん)証明書(しょうめいしょ)腕章(わんしょう)
正面外観には火災(かさい)(あと)が生々しく残っている。後日()(あと)からは78人の遺体(いたい)収容(しゅうよう)された。駅職員(しょくいん)926人中、11人が死亡(しぼう)、201人が重軽傷(じゅうけいしょう)を負った。写真の手前や駅前の広場にある()り土は空襲(くうしゅう)(そな)えて(つく)られた防空(ぼうくう)ごうである。
稲荷町(いなりまち)電車専用橋(せんようきょう)
爆心地から約1,350m 下柳町(しもやなぎちょう)(現在の銀山町(かなやまちょう)
爆風(ばくふう)でレールは大きく波打ち、枕木(まくらぎ)の一部は()げている。並行(へいこう)する人道橋の稲荷橋(いなりばし)が落橋したため、多くの人がこの鉄橋を(わた)って市内中心部から東練兵場などに避難(ひなん)した。
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  宮武甫・榮一写真展
―被爆直後のヒロシマを撮る

 ●はじめに
 ●宮武甫撮影-傷つけられた人々-
  ■ヒロシマに入る
  ■臨時救護所となった福屋百貨店
  ■負傷者を乗せたトラック
  ■住吉橋のたもとの臨時救護所跡と火葬場
  ■混乱の中の広島赤十字病院
  ■爆風の爪あと
  ■廃虚の中
 ●松本榮一撮影-破壊された街-
  ■爆心地とその周辺
  ■紙屋町・本通り付近
  ■基町付近
  ■幟町付近
  ■千田町・皆実町付近
  ■比治山・段原
 ●おわりに

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