きかくてんをみよう
松本榮一撮影 破壊(はかい)された街-
比治山(ひじやま)段原(だんばら)付近(ふきん)
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段原(だんばら)国民学校
爆心地から約1,800m 金屋町(きんやちょう)
木造(もくぞう)2階建ての校舎(こうしゃ)爆風(ばくふう)により一瞬(いっしゅん)にして全壊(ぜんかい)。当日登校していた高等科1年生の生徒約30人と教員5人が校舎(こうしゃ)下敷(したじ)きになり、ほとんどの生徒が脱出(だっしゅつ)できないまま校舎(こうしゃ)は全焼した。
鶴見橋(つるみばし)
シダレヤナギ

爆心地から約1,700m 比治山(ひじやま)本町(ほんまち)
鶴見橋(つるみばし)は1880(明治13)年竣工(しゅんこう)木造(もくぞう)の橋で、熱線により欄干(らんかん)に火が着いたが消し止められた。多くの人がこの橋を(わた)り、比治山(ひじやま)方面(ほうめん)避難(ひなん)した。右側の木は現在(げんざい)も残るシダレヤナギ。新しい芽がふいている。
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多聞院(たもんいん)
爆心地から約1,750m 段原町(だんはらちょう)(現在の比治山町(ひじやまちょう)
爆風(ばくふう)により大破(たいは)した本堂。8月6日夕方、県防空(ぼうくう)本部(ほんぶ)が置かれ、被爆(ひばく)(ほう)内務(ないむ)(しょう)に伝え、県下各機関や隣県(りんけん)救護(きゅうご)(はん)の出動命令が出された。(よく)早朝、県防空(ぼうくう)本部(ほんぶ)下柳(しもやなぎ)町(現在の銀山町)の広島東警察署(けいさつしょ)移転(いてん)した。
比治山(ひじやま)公園から北北東の段原(だんばら)地区を望む
爆心地から約1,980m 比治山(ひじやま)公園
比治山(ひじやま)の東側は爆風(ばくふう)による被害(ひがい)があったが、火災(かさい)は発生しなかった。左上に猿猴川(えんこうがわ)にかかる大正橋が見えるが、この北西が全焼・全壊(ぜんかい)地域(ちいき)との(さかい)となった。
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  宮武甫・榮一写真展
―被爆直後のヒロシマを撮る

 ●はじめに
 ●宮武甫撮影-傷つけられた人々-
  ■ヒロシマに入る
  ■臨時救護所となった福屋百貨店
  ■負傷者を乗せたトラック
  ■住吉橋のたもとの臨時救護所跡と火葬場
  ■混乱の中の広島赤十字病院
  ■爆風の爪あと
  ■廃虚の中
 ●松本榮一撮影-破壊された街-
  ■爆心地とその周辺
  ■紙屋町・本通り付近
  ■基町付近
  ■幟町付近
  ■千田町・皆実町付近
  ■比治山・段原
 ●おわりに

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