きかくてんをみよう
松本榮一撮影 破壊(はかい)された街-
幟町付近(のぼりちょうふきん)
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戦死者(せんししゃ)()(はか)」と 書かれた立て札
爆心地から約1,400m 上流川町(かみながれかわちょう)(現在の幟町(のぼりちょう)
縮景園(しゅっけいえん)に立てられた立て札には、「戦死者(せんししゃ)()(はか)三十八名」などの字が見える。1987(昭和62)年7月、この写真をもとに発掘(はっくつ)が行なわれ、立て札に(しめ)された64人分の遺骨(いこつ)確認(かくにん)された。
濯纓池(たくえいち)」と折れた松
爆心地から約1,390m 上流川町(かみながれかわちょう)(現在の幟町(のぼりちょう)
縮景園(しゅっけいえん)は、旧広島藩主(はんしゅ)浅野家(あさのけ)別邸(べってい)で、「泉邸(せんてい)」として親しまれていた。当日午後2時ころから木々が()え始め、園内の建物や樹木(じゅもく)の大半は失われた。
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■千田町・皆実町(みなみまち)付近
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熱線の(あと)が残る 広島地方専売局(せんばいきょく)の室内
爆心地から約2,280m 皆実町(みなみまち)二丁目
京橋川沿()いにあった鉄筋(てっきん)コンクリート(ぞう)局舎(きょくしゃ)爆心地(ばくしんち)側の窓際(まどぎわ)の柱に熱線の(あと)が残っている。
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御幸橋(みゆきばし)(たお)れた欄干(らんかん)
爆心地から約2,270m 御幸橋(みゆきばし)
爆風(ばくふう)により(たお)れた御影石(みかげいし)欄干(らんかん)爆心地(ばくしんち)側に当たる上流側の欄干(らんかん)は歩道に(たお)れ、下流側は川に落下した。
広島赤十字病院
爆心地から約1,500m 千田町一丁目
鉄筋(てっきん)コンクリート(ぞう)の本館、1号館、2号館は類焼(るいしょう)を食い止めたが、木造(もくぞう)建物(たてもの)は全焼し、入院中の患者(かんじゃ)5人と病院関係者69人が犠牲(ぎせい)になった。被爆(ひばく)直後から救護(きゅうご)活動の拠点(きょてん)となり、その後の被爆者(ひばくしゃ)医療(いりょう)においても大きな役割(やくわり)を果たしている。
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広島電鉄本社
爆心地から約1,950m 千田町三丁目(現在の東千田町二丁目)
外壁(がいへき)がくずれ半壊(はんかい)状態(じょうたい)であるが、かろうじて類焼(るいしょう)はまぬがれた。市内各所を運転中の路面電車70両も大きな被害(ひがい)を受け、従事(じゅうじ)職員(しょくいん)211人が死亡(しぼう)、289人が負傷(ふしょう)、学業のかたわら車掌(しゃしょう)や運転手をしていた広島電鉄家政(かせい)女学校(じょがっこう)の女生徒30人も死亡(しぼう)した

  宮武甫・榮一写真展
―被爆直後のヒロシマを撮る

 ●はじめに
 ●宮武甫撮影-傷つけられた人々-
  ■ヒロシマに入る
  ■臨時救護所となった福屋百貨店
  ■負傷者を乗せたトラック
  ■住吉橋のたもとの臨時救護所跡と火葬場
  ■混乱の中の広島赤十字病院
  ■爆風の爪あと
  ■廃虚の中
 ●松本榮一撮影-破壊された街-
  ■爆心地とその周辺
  ■紙屋町・本通り付近
  ■基町付近
  ■幟町付近
  ■千田町・皆実町付近
  ■比治山・段原
 ●おわりに

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