|
■幟町付近 |
|
|
|
56 |
「戦死者之墓」と
書かれた立て札
爆心地から約1,400m 上流川町(現在の幟町) |
縮景園に立てられた立て札には、「戦死者之墓三十八名」などの字が見える。1987(昭和62)年7月、この写真をもとに発掘が行なわれ、立て札に示された64人分の遺骨が確認された。 |
|
|
|
|
「濯纓池」と折れた松
爆心地から約1,390m 上流川町(現在の幟町) |
縮景園は、旧広島藩主浅野家の別邸で、「泉邸」として親しまれていた。当日午後2時ころから木々が燃え始め、園内の建物や樹木の大半は失われた。 |
57 |
|
|
■千田町・皆実町付近 |
|
|
|
59 |
熱線の跡が残る
広島地方専売局の室内
爆心地から約2,280m 皆実町二丁目 |
京橋川沿いにあった鉄筋コンクリート造の局舎。爆心地側の窓際の柱に熱線の跡が残っている。 |
|
58 |
御幸橋の
倒れた欄干
爆心地から約2,270m 御幸橋 |
爆風により倒れた御影石の欄干。爆心地側に当たる上流側の欄干は歩道に倒れ、下流側は川に落下した。 |
|
|
広島赤十字病院
爆心地から約1,500m 千田町一丁目 |
鉄筋コンクリート造の本館、1号館、2号館は類焼を食い止めたが、木造建物は全焼し、入院中の患者5人と病院関係者69人が犠牲になった。被爆直後から救護活動の拠点となり、その後の被爆者医療においても大きな役割を果たしている。 |
60 |
|
|
|
|
61 |
広島電鉄本社
爆心地から約1,950m 千田町三丁目(現在の東千田町二丁目) |
外壁がくずれ半壊状態であるが、かろうじて類焼はまぬがれた。市内各所を運転中の路面電車70両も大きな被害を受け、従事職員211人が死亡、289人が負傷、学業のかたわら車掌や運転手をしていた広島電鉄家政女学校の女生徒30人も死亡した |
|
|