きかくてんをみよう
宮武甫撮影 (きず)つけられた人々-
住吉橋(すみよしばし)のたもとの臨時(りんじ)救護所(きゅうごしょ)(あと)火葬場(かそうば)
被爆(ひばく)直後の混乱(こんらん)の中では、とにかく重傷者(じゅうしょうしゃ)が多く集まったところが救護所(きゅうごしょ)と定められ、そこに救護班(きゅうごはん)が配置された。住吉橋(すみよしばし)のたもとなどは、建物(たてもの)疎開(そかい)(あと)の空き地に、避難(ひなん)途中(とちゅう)負傷者(ふしょうしゃ)が力つきて次々と(たお)れ、そこを救護所(きゅうごしょ)にせざるを得なくなったものと思われる。
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住吉橋(すみよしばし)東詰(ひがしづめ)臨時(りんじ)救護所(きゅうごしょ)(あと)火葬場(かそうば)
爆心地から約1,360m 水主町(かこまち)(現在の住吉町(すみよしちょう)
道端(みちばた)のバラックが急造(きゅうぞう)された臨時(りんじ)救護所(きゅうごしょ)。すでに移転(いてん)して救護(きゅうご)活動は行なわれていない。手前は臨時(りんじ)火葬場(かそうば)で、白い(ほね)のかけらが散乱(さんらん)し、(おく)のトタン板の下には、これから火葬(かそう)される遺体(いたい)が置かれている。

■通院する親子
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外来(がいらい)治療(ちりょう)を受け帰途(きと)につく親子
爆心地から約2,350m 皆実町(みなみまち)二丁目
この親子は、広島地方専売局(せんばいきょく)救護所(きゅうごしょ)に通っていた。母親は左腕(ひだりうで)と両足をやけどし歩くことができなかった。女の子は当時6(さい)、顔に()られた薬と包帯が痛々(いたいた)しい。
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トタン板の下の遺体(いたい)
爆心地から約1,360m 水主町(かこまち)(現在の住吉町(すみよしちょう)
住吉橋(すみよしばし)にも多くの遺体(いたい)が流れ着き引き()げられた。写真の遺体(いたい)は、体は変色して()れ上がり、老若(ろうにゃく)男女(なんにょ)の区別もつかない。
住吉橋(すみよしばし)たもとの船着場
爆心地から約1,290m 水主町(かこまち)(現在の住吉町(すみよしちょう)
(こわ)れた船や流れ着いた木材で船着場が()まっている。住吉橋(すみよしばし)のたもとに集まった負傷者(ふしょうしゃ)はここから宇品(うじな)似島(にのしま)に運ばれた。
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  宮武甫・榮一写真展
―被爆直後のヒロシマを撮る

 ●はじめに
 ●宮武甫撮影-傷つけられた人々-
  ■ヒロシマに入る
  ■臨時救護所となった福屋百貨店
  ■負傷者を乗せたトラック
  ■住吉橋のたもとの臨時救護所跡と火葬場
  ■混乱の中の広島赤十字病院
  ■爆風の爪あと
  ■廃虚の中
 ●松本榮一撮影-破壊された街-
  ■爆心地とその周辺
  ■紙屋町・本通り付近
  ■基町付近
  ■幟町付近
  ■千田町・皆実町付近
  ■比治山・段原
 ●おわりに

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