きかくてんをみよう
はじめに
宮武(みやたけ)(はじめ)氏・松本(まつもと)榮一(えいいち)氏は、当時朝日新聞社のカメラマンで、宮武氏は1945(昭和20)年8月に、松本氏は9月に、壊滅(かいめつ)した広島の惨状(さんじょう)撮影(さつえい)した。それぞれ100(まい)()える写真が残っているが、どれも被爆(ひばく)実態(じったい)をとらえた貴重(きちょう)なものだ。現在(げんざい)確認(かくにん)されている広島の被災(ひさい)撮影(さつえい)枚数(まいすう)としては、菊池(きくち)俊吉(しゅんきち)氏、(はやし)重男(しげお)氏〔1945(昭和20)年9月下旬(げじゅん)から10月にかけて入市した文部省(もんぶしょう)学術(がくじゅつ)研究(けんきゅう)会議(かいぎ)原子(げんし)爆弾(ばくだん)災害(さいがい)調査(ちょうさ)研究(けんきゅう)特別(とくべつ)委員会(いいんかい)調査団(ちょうさだん)の一員〕についで多い。2005(平成17)年8月、広島平和記念資料館は、朝日新聞社から、両氏撮影(さつえい)の写真の提供(ていきょう)を受けた。現在(げんざい)これらの詳細(しょうさい)分析(ぶんせき)を行っているが、その一部を紹介(しょうかい)する。原爆(げんばく)によって(きず)つけられた人々や破壊(はかい)された街、戦争の悲惨(ひさん)さと(おろ)かさを知り、二人のカメラマンが何を伝えようとしたのかを考えていただきたい。
1
宮武(みやたけ)(はじめ)
(1914-1985)
朝日新聞大阪本社の写真部員。中部軍管区(ぐんかんく)司令部の宣伝(せんでん)工作(こうさく)(たい)のカメラマンとして広島に入市した。8月9日夕方広島駅に到着(とうちゃく)。10、11日に本格的(ほんかくてき)に写真撮影(さつえい)を行ない、4日後(12日と思われる。)帰阪(きはん)した。被爆(ひばく)後わずか一週間足らずの間に撮影(さつえい)された写真が、121(まい)残されている。
2
松本(まつもと)榮一(えいいち)
(1915-2004)
朝日新聞東京本社の出版局(しゅっぱんきょく)写真(しゃしん)課員(かいん)。終戦直後、同社の雑誌(ざっし)「科学朝日」の原爆(げんばく)特集のため、長崎(ながさき)と広島に入る。1945(昭和20)年8月25日から9月15日まで長崎撮影(さつえい)し、その後広島に向かい、枕崎(まくらざき)台風直後の18日から25日まで滞在(たいざい)した。広島を撮影(さつえい)した写真は157(まい)残されている。
原爆(げんばく)被害(ひがい)の初公開
3
アサヒグラフ
1952年8月6日号
連合国軍の占領下(せんりょうか)、プレスコードにより、原爆(げんばく)被害(ひがい)報道(ほうどう)(きび)しく制限(せいげん)されていた。宮武・松本両氏も広島を撮影(さつえい)したプリントは没収(ぼっしゅう)され、フィルムは焼却(しょうきゃく)するよう(もう)(わた)された。6年(あま)りにわたる占領(せんりょう)期間(きかん)中、二人はそれぞれ(ひそ)かにフィルムを守り続けた。占領(せんりょう)が終わった1952年夏、二人の写真はアサヒグラフ1952年8月6日号に掲載(けいさい)され、各方面に大きな衝撃(しょうげき)(あた)えた。「原爆(げんばく)被害(ひがい)の初公開」と題されたこの特集号は発売と同時に売り切れとなり、朝日新聞社では表紙の多色刷りを単色刷りに改め4回にわたって増刷(ぞうさつ)し、70万部が発行された。
この企画展で掲載している撮影場所は、次の記号で表しています。

  宮武甫・榮一写真展
―被爆直後のヒロシマを撮る

 ●はじめに
 ●宮武甫撮影-傷つけられた人々-
  ■ヒロシマに入る
  ■臨時救護所となった福屋百貨店
  ■負傷者を乗せたトラック
  ■住吉橋のたもとの臨時救護所跡と火葬場
  ■混乱の中の広島赤十字病院
  ■爆風の爪あと
  ■廃虚の中
 ●松本榮一撮影-破壊された街-
  ■爆心地とその周辺
  ■紙屋町・本通り付近
  ■基町付近
  ■幟町付近
  ■千田町・皆実町付近
  ■比治山・段原
 ●おわりに

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