きかくてんをみよう
松本榮一撮影 破壊(はかい)された街-
■紙屋町・本通り付近(ふきん)
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路面電車(100形)の残がい
爆心地から約360m 研屋町(とぎやちょう)(現在の紙屋町一丁目)
100形は、広島電鉄の前身・広島電気軌道(きどう)が1912(大正元)年開業した時にデビューした木造(もくぞう)車両(しゃりょう)である。下り軌道(きどう)上で被爆(ひばく)し全焼した。
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福屋百貨店
爆心地から約710m 胡町(えびすちょう)
火災(かさい)で内部は完全に焼失し外郭(がいかく)のみが残された。被爆(ひばく)後は臨時(りんじ)救護所(きゅうごしょ)となり、8月17日からは、臨時(りんじ)の「伝染病(でんせんびょう)病院(びょういん)」として約1カ月間使用された。放射線(ほうしゃせん)による急性(きゅうせい)障害(しょうがい)赤痢(せきり)(あやま)って診断(しんだん)されたためであった。
広島県商工経済会(けいざいかい)
爆心地から約260m 基町(もとまち)
爆心地(ばくしんち)に近くほとんど真上から爆風(ばくふう)を受けたため、屋上の側壁(そくへき)が外側に()(たお)されている。広島県産業(さんぎょう)奨励館(しょうれいかん)の北側にあり、多くの人がこの建物の展望楼(てんぼうろう)から広島市内の惨状(さんじょう)撮影(さつえい)した。原爆(げんばく)により職員(しょくいん)28人が犠牲(ぎせい)となっている。
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帝国(ていこく)銀行広島支店
爆心地から約360m 革屋町(かわやちょう)(現在の本通)
北西部の外壁(がいへき)破壊(はかい)され屋根の大部分は()け落ちた。内部の(はり)や柱も折れ、鉄筋(てっきん)はむき出しになり、全焼した。破壊(はかい)された建物は、1950(昭和25)年5月に修復(しゅうふく)を終え、現在は「広島アンデルセン」に改装(かいそう)されている。
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鉄くずとなった自動車
爆心地から約320m 塩屋町(しおやちょう)(大手町二丁目)
塩屋町(しおやちょう)道路脇(どうろわき)に放置された自動車。前に「(ひろ)172」と書かれた登録番号が付いている。
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袋町(ふくろまち)国民学校
爆心地から約460m 袋町(ふくろまち)
児童・教職員(きょうしょくいん)約160人のうち、生き残ったのは数人だけ。1階は救護所(きゅうごしょ)になり、階段(かいだん)室の壁面(へきめん)などには、被爆者(ひばくしゃ)の消息を知らせる伝言が残された。
国泰寺(こくたいじ)の大クスノキ
爆心地から約420m 小町(現在の中町)
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国泰寺(こくたいじ)には、樹齢(じゅれい)300年といわれるクスノキが4本あり、大きいものは(みき)の直径が7mもあった。天然記念物にもなったクスノキは大切にされ、根を守るため、路面電車の軌道(きどう)迂回(うかい)し、歩道は高く()り上げられていた。市民に愛されたクスノキも、爆風(ばくふう)(たお)れ、熱線とその後の火災(かさい)に焼かれ、枯死(こし)した。

  宮武甫・榮一写真展
―被爆直後のヒロシマを撮る

 ●はじめに
 ●宮武甫撮影-傷つけられた人々-
  ■ヒロシマに入る
  ■臨時救護所となった福屋百貨店
  ■負傷者を乗せたトラック
  ■住吉橋のたもとの臨時救護所跡と火葬場
  ■混乱の中の広島赤十字病院
  ■爆風の爪あと
  ■廃虚の中
 ●松本榮一撮影-破壊された街-
  ■爆心地とその周辺
  ■紙屋町・本通り付近
  ■基町付近
  ■幟町付近
  ■千田町・皆実町付近
  ■比治山・段原
 ●おわりに

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