きかくてんをみよう
宮武甫撮影 (きず)つけられた人々-
廃虚(はいきょ)の中
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下村時計店
爆心地から約620m 播磨屋町(はりまやちょう)(現在の本通)
本通り(すじ)のハイカラな建物として親しまれていた。1階部分は完全に倒壊(とうかい)し、2階と時計台は西から東に()さえつけられたように(かたむ)いている。
広島瓦斯(がす)本社
爆心地から約210m 大手町三丁目(現在の大手町二丁目)
大手町筋(おおてまちすじ)を南に望む。広島瓦斯本社の建物は爆心(ばくしん)の方角を(しめ)すかのように北東の一角が3階から1階までつぶされている。
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落橋した本川橋
爆心地から約450m 塚本町(つかもとちょう)(現在の堺町(さかいまち)一丁目)
本川橋は1897(明治30)年の竣工(しゅんこう)鉄製(てっせい)トラス橋は当時の最新式で、広島の新名所になった。爆風(ばくふう)により全壊(ぜんかい)、落橋した。
倒壊(とうかい)した旧大本営(だいほんえい)
爆心地から約910m 基町(もとまち)
広島城内には、中国軍管区(ぐんかんく)司令部(しれいぶ)が置かれていた。城郭(じょうかく)建築(けんちく)倒壊(とうかい)または焼失、軍事(ぐんじ)施設(しせつ)壊滅(かいめつ)した。写真は1894(明治27)年の日清戦争時に本丸に置かれた旧大本営(だいほんえい)
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焼けて(みき)だけが残った樹木(じゅもく)
爆心地から約860m 基町(もとまち)
遺体(いたい)収容(しゅうよう)されないまま残されているためかトンビが()っている。
爆風(ばくふう)で折れた松
爆心地から約630m 基町(もとまち)
西練兵場(れんぺいじょう)中央付近から南に向かって撮影(さつえい)。木の後ろに見える(うね)は食料不足を(おぎな)うために練兵場(れんぺいじょう)に作られた野菜畑である。
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救援(きゅうえん)のため入市する人々
爆心地から約1,180m 山口町(現在の銀山町)
焼け野原になった市内を広島東警察署(けいさつしょ)西側から望む。電車通りを中心部に向かう人々が見える。被爆(ひばく)直後から、肉親・知人の捜索(そうさく)負傷者(ふしょうしゃ)救護(きゅうご)遺体(いたい)収容(しゅうよう)復旧(ふっきゅう)活動などのため、多くの人が入市したが、これらの人々も残留(ざんりゅう)放射線(ほうしゃせん)にさらされた。
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全焼した路面電車(150形)
爆心地から約320m 基町(もとまち)
この電車は満員の乗客を乗せて広島駅方面に運行中、紙屋町交差点近くで被爆(ひばく)、全焼した。後ろに見える石垣(いしがき)は、相生橋から八丁堀(はっちょうぼり)付近(ふきん)まであった広島城外堀(そとぼり)(あと)
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日本赤十字社広島支部
爆心地から約210m 猿楽町(さるがくちょう)(現在の大手町一丁目)
鉄筋(てっきん)コンクリート(ぞう)の建物は大破(たいは)し、支部職員(しょくいん)15人が犠牲(ぎせい)になった。建物の右手前の(まき)の束は、火葬(かそう)のために(はこ)()まれたものと思われる。
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広島県産業(さんぎょう)奨励館(しょうれいかん)
爆心地から約160m 猿楽町(さるがくちょう)(現在の大手町一丁目)
戦後、「原爆(げんばく)ドーム」と()ばれて原爆(げんばく)惨禍(さんか)を伝える象徴(しょうちょう)となった。数多くの撮影者(さつえいしゃ)が写真に残しているが、被爆後(ひばくご)最も初期のものと思われる。

  宮武甫・榮一写真展
―被爆直後のヒロシマを撮る

 ●はじめに
 ●宮武甫撮影-傷つけられた人々-
  ■ヒロシマに入る
  ■臨時救護所となった福屋百貨店
  ■負傷者を乗せたトラック
  ■住吉橋のたもとの臨時救護所跡と火葬場
  ■混乱の中の広島赤十字病院
  ■爆風の爪あと
  ■廃虚の中
 ●松本榮一撮影-破壊された街-
  ■爆心地とその周辺
  ■紙屋町・本通り付近
  ■基町付近
  ■幟町付近
  ■千田町・皆実町付近
  ■比治山・段原
 ●おわりに

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