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松本氏は朝日新聞社から記者とともに2人で長崎と広島に派遣された。1945(昭和20)年8月25日から9月15日まで長崎を撮影、その後広島に向かう途中、枕崎台風に遭い、広島には9月18日から25日まで滞在した。「科学朝日」の原爆特集の取材であったため、建物の被害に着目した写真がほとんどである。当時の新聞社では人体のむごたらしい写真は報道しないという事情もあった。撮影した写真の中には、1987(昭和62)年7月に縮景園での遺骨発掘のきっかけとなった写真も含まれている。
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松本氏は写真の右端。安佐郡祗園町(現在の広島市安佐南区)にて朝日新聞広島支局の支局員宿舎での記念撮影 |
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遺骨遺骨を伝える新聞記事
1987(昭和62)年7月29日付け中国新聞 |
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■爆心地とその周辺 |
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島病院
爆心地 細工町(現在の大手町一丁目) |
がれきとなった島病院。原爆はこの病院の上空約600mでさく裂した。壁の厚さが1mもあり、どんな爆撃にも耐えられると思われた病院も原爆にはひとたまりもなかった。約75人の患者、病院関係者は建物とともに全滅した。 |
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元安橋
爆心地から約130m 中島本町(現在の中島町) |
元安橋西詰から爆心地・島病院方向を望む。橋桁は原爆に耐えたが、欄干はすべて川に落ち、親柱の上の笠石は左右逆方向にずれた。この状況から爆心地は元安橋の延長線上に位置すると推定された。 |
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燃料会館
爆心地から約170m 中島本町(現在の中島町) |
竣工時は呉服店で、被爆当時は広島県燃料配給統制組合などが使用していた。1957(昭和32)年広島市が買収し東部復興事務所として、市の東部地域の復興の拠点となった。現在は平和記念公園レストハウスとして整備されている。 |
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三井生命広島支店の金庫室
爆心地から約200m 中島本町(現在の中島町) |
三井生命広島支店は全壊全焼し、建物の中心にあった金庫室の残がいがかろうじて残った。現在の平和記念公園の「原爆の子の像」の付近にあった建物である。 |
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本川国民学校校舎
爆心地から約410m 鍛治屋町(現在の本川町一丁目) |
爆心地に面した東側の壁面。爆風により3階と2階の壁面は内側に押し曲げられ波打っている。約400人の児童、10人の教職員、校舎内に勤務していた広島県庁土木部の職員などの多数が犠牲になった。全焼した校舎は、翌日から臨時救護所となった。 |
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瀬川倉庫
爆心地から約550m 中島新町(現在の中島町) |
鉄筋コンクリート造2階建の倉庫は、屋根や床、外壁が崩れ落ちて平屋建てのようになり、全焼した。 |
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新大橋
爆心地から約620m 中島新町(現在の中島町) |
1945年(昭和20)年9月の枕崎台風で落橋。1952(昭和27)年、ほぼ同位置に現在の西平和大橋が架けられた。この付近では、建物疎開作業のため、多くの中学校・高等女学校などの生徒が動員されていた。生徒たちはほとんど全滅しその遺体は川を埋め尽くした。 |
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