原爆孤老
原爆によって、夫や妻、子どもなどの家族や財産を失い、ひとりで戦後を生き抜いてきた人々がいます。高齢化したこれらの人々は「原爆孤老」と呼ばれました。
原爆孤老のなかには、被爆で家族全員を失ってひとりになった人もいますが、原爆によって離散した家族が音信不通となり身寄りがなくなった人や、家族構成の変化によりひとりの生活を余儀なくされている人、自らひとりで暮らすことを選んだ人もいます。
「何をするために生きているのでしょう。早く死んだ方がいいのですよ」。
1960年代後半から、孤独感や病気と生活に対する不安を抱き、再び生きる希望を失いつつあった「原爆孤老」が社会問題化し、援護策が行われるようになりました。
夏祭り
被爆して片方の目と家族を失った老人は、にぎやかな場所を求めて夏祭りにやって来ました。
1954年(昭和29年)三川町・円隆寺
撮影/佐々木 雄一郎氏
提供/塩浦 雄悟氏
養護施設で
養護施設「舟入むつみ園」は1970年(昭和45年)4月に開設しました。
1971年(昭和46年) 舟入むつみ園
撮影/佐々木 雄一郎氏 提供/塩浦 雄悟氏
原爆供養塔
1946年(昭和21年)1月、被爆直後に市内各地で仮埋葬された人々の遺骨を収容し供養するため、「広島市戦災死没者供養会」が設立されました。同年5月、慈仙寺鼻に戦災死没者供養塔が、同年7月には納骨堂・礼拝堂が、市民の寄付によって建てられました。そして、1955年(昭和30年)7月には、平和記念公園の西北隅に、既存のものに代わり現在の原爆供養塔が建てられました。
広島市内の復興に伴い、道路や家屋工事現場などから見つかった被爆者の遺骨は供養塔に集められました。供養塔内部には数万の犠牲者の遺骨が納められています。
2012年(
平成24年)8月5日現在、氏名が判明しているにも関わらず引き取り手のない遺骨は816柱にのぼります。
戦災死没者供養塔と祈る人々
1946年(昭和21年)5月、慈仙寺鼻に卒塔婆をかたどった戦災死没者供養塔が建てられました。
1949年(昭和24年)8月6日 中島本町(現在の中島町)
撮影/佐々木 雄一郎氏 提供/塩浦 雄悟氏