似島
1894年(明治27年)に始まった日清戦争の際、大陸への出兵基地となっていた広島は、以後軍都としての性格を強めていきました。
1895年(明治28年)、外地から帰還した兵士の検疫・消毒を行う検疫所が似島に設けられました。
その後も、似島にはさまざまな軍事施設が設けられ、終戦間近には、島の東半分は軍の施設で占められていました。
被爆当時、似島には薬や衛生材料など約5,000人分の備蓄がありました。原爆による建物の被害がほとんどなかったため、20日間で約1万人の負傷者が搬送されたと言われています。
「似島 廣島とヒロシマ」から作成
病棟になった検疫所の附属病院や停留舎は負傷者ですぐにいっぱいになり、馬匹検疫所の馬小屋さえも収容所となりました。
手術室では昼夜ひっきりなしに手術が行われ、きちんと片づける間もありませんでした。
傷口から細菌が入って筋肉が壊死したために切断された患者の手足が窓から投げ出され、窓枠を超える高さまで積まれていました。
蓄えていた医薬品はすぐに底をつきました。十分な手当てをすることができないなか、負傷者は苦しみながら次々と亡くなりました。
遺体は山のように積まれ、まとめて火葬されましたが、日が経つにつれ、火葬が追いつかなくなり、洞窟や防空壕など穴があればどこにでも埋められました。
(出典:「似島 廣島とヒロシマ」原水爆禁止似島少年少女のつどい実行委員会)
似島検疫所内救護所
似島に運ばれた負傷者は、第二検疫所を中心に収容されました。
1945年(昭和20年)8月7日から20日ころ
撮影/陸軍船舶司令部写真班 寄贈/御園生 圭輔氏
柳生高江さん
モンペの切れ端
福田育枝さんの姉、柳生高江さん(当時13歳)は、学校を休んでいましたが、久しぶりに友だちに会いたいと建物疎開作業に出て被爆しました。母・尚子さんは毎日高江さんを捜し、12日、似島の収容所で高江さんを見つけました。
高江さんの顔はやけどで膨れ、体には衣服の切れ端が付いているだけで、「お母ちゃんが来たよ」と声をかけても意識がはっきりしませんでした。13日夜、高江さんは似島から宮島に移送され、翌朝、「お父ちゃん」、「お母ちゃん」と呼びながら亡くなりました。
寄贈/福田 育枝氏