わたしはここにいる

 被爆ひばくから日がつにつれ、あとには、帰ってこない親族や知人をさがしに行く人々がえていきました。
 人々はただただ大切な人の身をあんじ、少しでも手がかりをようと連日れんじつ市内を歩き回りました。
 とくに大きな収容しゅうよう所には、さがしている人の安否あんぴをいち早くたしかめようとする人々がせ、収容しゅうよう受付うけつけ簿うばい合い、殺気立さっきだっていました。

 きずつき、わりてた姿すがたでも家族の強い思いがたがいを引きせ合うのでしょうか。
わたしはここにいる」。

 混乱こんらんの中でも奇跡きせきのような出会いがありました。

兄の地下足袋じかたび

木下勝行さんの兄、木下義治よしはるさん(当時13さい)は建物たてもの疎開そかい作業現場げんば被爆ひばくしました。
父親の布哇一ほわいちさんは、6日昼ぎから方々をさがし歩き、ここを最後さいごとたどりついた出汐でしお町の広島陸軍りくぐん被服ひふく支廠ししょうで、担架たんかに乗せられた遺体いたいとすれちがいました。
頭から足先まで全身包帯ほうたいかれ、外見ではだれとも見分けがつかない姿すがたでしたが、布哇一ほわいちさんは遺体いたいにつけられていた荷札にふだに書かれたわが子の名前に目をとめ、遺体いたいを家にれ帰りました。

寄贈きぞう/木下 勝行氏

西本博哉ひろかさん

被爆ひばくから42日目に

西本ヲユキさんの三男、西本博哉ひろかさん(当時12さい)は、建物たてもの疎開そかい作業中に被爆ひばくしました。
ヲユキさんは博哉ひろかさんの行方をたずね歩き、4日後、防空ぼうくう頭巾ずきんを見つけました。
被爆ひばくから42日目、市内を歩きくし、ヲユキさんは博哉ひろかさんの捜索そうさくをあきらめようと思い、博哉ひろかさんが作業していたあたりで手を合わせていたところ、石と石の間に白いぬのを見つけました。引っり出してみると、博哉ひろかさんが使っていた教練手帳入れでした。
ヲユキさんは防空ぼうくう頭巾ずきんと教練手帳入れを仏壇ぶつだんにそなえ、大切にしました。

寄贈きぞう/西本 ヲユキ氏

玉谷明二めいじさん

二中のボタン

玉谷明さんの弟、玉谷明二めいじさん(当時13さい)は、学徒がくと動員先へ行く途中とちゅう被爆ひばくしました。
両親は市内をさがし回りましたが、遺体いたいを見つけることができませんでした。
翌年よくねん5月、愛宕あたご踏切ふみきり近くで、崩壊ほうかいした土蔵どぞう下敷したじきになってくなっている遺体いたいが発見されました。その着衣ちゃくいや二中のボタンなどから、明二めいじさんの遺体いたいであることが確認かくにんされ、ようやく明二めいじさんは自宅じたくに帰ることができました。

寄贈/玉谷 明氏

君を想う

-あのときピカがなかったら-