入市した人は家族の安否あんぴたずね、家族を待つ人は自身の消息をかべに記しました。

1945年(昭和20年)10月上旬じょうじゅん
撮影さつえい菊池きくち 俊吉しゅんきち氏 提供ていきょう菊池きくち 徳子とくこ

消息を知らせる

 袋町ふくろまち国民こくみん学校(げん袋町ふくろまち小学校)は爆心ばくしん地から460mのところにありました。原爆げんばく木造もくぞう校舎こうしゃはすべて倒壊とうかいし、鉄筋てっきんコンクリートづくりの西校舎こうしゃ外郭がいかく原型げんけいをとどめただけでしたが、被爆ひばく直後から被災ひさい者の救護きゅうご所となりました。
 校舎こうしゃ壁面へきめんには、人々の消息を知らせ、消息をたずねる数多くの伝言でんごんが書かれました。
 「伝言でんごん」は1945年(昭和20年)10月に菊池きくち俊吉しゅんきち氏が撮影さつえいした写真にのこされています。小学校再建さいけん過程かていかべりつぶされ、「伝言でんごん」の存在そんざいが分からなくなっていましたが、1999年(平成へいせい11年)3月、校舎こうしゃの全面改築かいちくさいかべの一部をけずったところ「伝言板でんごんばん」がふたた姿すがたあらわしました。

伝言板でんごんばん袋町ふくろまち小学校平和資料館しりょうかん展示てんじされています。

袋町ふくろまち小学校平和資料館しりょうかん
広島市中区袋町ふくろまち6-36

開館時間 9:00~17:00
休館日  12月28日~翌年よくねん1月4日
入館りょう 無料むりょう

行方がわからないまま

 毎日毎日、必死ひっしになって肉親や知人をさがし回っても行方がわからず、遺骨いこつを持ち帰ることさえできない人々もいました。
 爆風ばくふうばされたり、川に流されたり、ひどいやけどを負って一見して見分けがつかなかったり、すでに遺体いたい処理しょりされたりしていたためです。

 もどってこない家族の消息を確認かくにんできない現実げんじつを受け止めようとしつつも、あきらめきれない気持ちをかかえ、人々はあと自宅じたくのこされた持ち物を大切に保管ほかんしてきました。

入田正子さん

遺筆いひつ

入田茂雄しげおさんの二女、入田正子さん(当時12さい)は、学徒がくと動員先で被爆ひばくしました。
6日の朝、正子さんは、調子が悪かった母・ヤスヨさんのためにおかゆを作り、ヤスヨさんが休むようにすすめるのも聞かず「お国のため」、「級長の自分が休んだらみんなが休むから」と言って家を出ました。
茂雄しげおさんは正子さんをさがして市内を歩き回りましたが、正子さんの行方は分かりませんでした。
正子さんのつくえの中には「君のため国のためわれ死なん」、「米えい撃滅げきめつ」と書かれた紙がのこされていました。

寄贈きぞう/入田 茂雄しげお

昆野ひの直文さん

食べることのなかった弁当べんとう

昆野ひの安枝やすえさんの叔父おじ昆野ひの直文さん(当時13さい)は、建物たてもの疎開そかい作業中に被爆ひばくしました。
直文さんの父、直人さんや姉の勝美さんが必死ひっしさがしましたが、直文さんの行方は分かりませんでした。
建物たてもの疎開そかい作業現場げんば近くの川土手にならべられていた生徒せいとたちのカバンの中に、直文さんのものがあり、直文さんが食べることのなかった弁当べんとうのこされていました。
このカバンは直文さんの母・マス子さんが自分の着物のおびをほどいて、手ぬぐいとい合わせて作ったものでした。

寄贈きぞう昆野ひの 安枝やすえ

君を想う

-あのときピカがなかったら-