被爆直後の広島
被災した人たちはどこへどう避難したのか
原爆により、広島は全市が一瞬にして壊滅、大火災となり、市内は大混乱に陥りました。負傷して血だるまになった人々は襲いかかる火炎の中から郊外へと、命からがら逃げだしました。
広島市郊外の佐伯郡・安佐郡・安芸郡などへ逃げた人々は、軍のトラックや汽車で送られた負傷者も含め約15万人にのぼります。広島市南部にある宇品港から瀬戸内海の島々に親戚を頼って逃げる人々で港はごったがえしました。
避難してきた人々の受け入れ先も救護活動に追われ、大混乱になりました。
「似島 廣島とヒロシマ」から作成
広島市大避難実施要領
1945年(昭和20年)4月、広島市は「広島市大避難実施要領」を発表しました。
この要領では、広島市が空襲で大火災になった場合の各町内会の避難先が、佐伯郡・安佐郡・安芸郡の各町村に指定され、重要文書や避難生活に必要な食糧・医薬品などをあらかじめ指定避難先に備蓄することになりました。
寄贈/長沼 博氏
被爆直後の救援
被爆当日、爆心地から約4km離れ、比較的被害が少なかった陸軍船舶司令部所属部隊(通称「暁部隊」)を中心に、近郊からも含め、軍関係者や、警察官、医師たちが被災者の救出、応急手当、輸送、死体の収容、市民への炊き出しなどを行いました。
かろうじて火災を免れた病院や広島市周辺部の医療機関、各地に急設された臨時救護所は、どこも負傷者であふれました。医師や看護婦の多くが被災していたうえ、医薬品はまったく足りず、収容された人々は十分な治療が受けられないまま、次々と亡くなりました。その間も、救護所には負傷者が絶え間なく運び込まれ、肉親を呼ぶ声、助けを求める声が一晩中続きました。
負傷者を郊外へ運ぶトラック
被爆直後から、被爆した人たちはトラックで安全な郊外へ運ばれました。
1945年(昭和20年)8月6日午後
撮影/松重 三男氏
提供/広島原爆被災撮影者の会
病院に収容された人々
爆心地から約1,500mの広島赤十字病院。
窓枠が飛ばされ、吹きさらしになった病室には、薄い布団がすき間なく敷かれ、多くの負傷者が横たわっています。
病院関係者は傷を負いながら、不眠不休で被災した人たちの看護にあたりました。
1945年(昭和20年)8月9日から8月12日
撮影/宮武 甫氏 提供/朝日新聞社
第一国民学校臨時救護所
第一国民学校(現・広島市立段原中学校)の校舎は焼失しなかったため、10月まで負傷者の救護所となり、校庭の一部は仮火葬場となりました。
1945年(昭和20年)8月7日から1945年(昭和20年)8月20日ころ
撮影/陸軍船舶司令部写真班
提供/広島原爆障害対策協議会
“握飯計画”
被爆翌日から、周辺町村から炊き出しのにぎり飯が運び込まれました。
道端に倒れたままの人たちにも一人一人渡されましたが、中には食べる気力もなく、手に握ったままの人もいました。
防空本部ではあらかじめいろんな計画が立てられたが、その中で実際に役立ったのは、握飯計画だけであった。
(中略)
松本西署長は、
「私が海田市、可部、廿日市の三署長に話して、広島市がやられたら、この三署管内の町村で握飯をつくって広島へ運んでもらう。使った米はあとで市が支払うことにする。これでどうだろう」というのだ。
(中略)
この“握飯計画”のおかげで、被災後十日間は、市民の主食に関するかぎり、全く心配せずにすんだのである。せっせと握飯をにぎって送ってくれた周辺農村の人びとの友情も忘れてはならない。
中にはあの混乱の中で、暑い季節を考えて、握飯を焼いて長持ちするようにと、細かな心づかいまでしてくれた村があったことは、殊に深く心に残った。
浜井信三著「よみがえった都市—復興への軌跡 原爆市長 復刻版」より