ピカがすべてをえた

 原爆げんばくは、多くの人々の命をうばっただけではなく、のこされた人々の生活もえました。
 生きのこった人々は、精神せいしんてき・身体てき苦痛くつうだけでなく、一家の大黒柱をうしなったり、原爆げんばく障害しょうがいを負ったためはたらけないなどの理由から、経済けいざいてきな問題もかかえるようになりました。
 ピカにあったことをわすれようにもわすれられない、つね被爆ひばくした事実に向き合わざるをえない過酷かこくな生活を強いられたのです。

学徒がくと動員犠牲ぎせい法要ほうよう

建物たてもの疎開そかい作業中に被爆ひばくしてくなった生徒せいとやく6,000人ともいわれています。
被爆ひばくから21年目の夏、やく1,000人の遺族いぞく参列さんれつし、法要ほうよういとなまれました。
投下から20年以上いじょうても、子を想う気持ちはわりません。

1966年(昭和41年)7月17日 寺町・西本願寺にしほんがんじ広島別院べついん
撮影さつえい佐々木ささき 雄一郎ゆういちろう氏 提供ていきょう塩浦しおうら 雄悟ゆうご

原爆げんばく孤児こじ

 政府せいふは、空襲くうしゅうによる被害ひがいを少なくするため、都市部に住む子どもたちを周辺しゅうへんの農村部などに疎開そかいさせました。これを学童疎開そかいといいます。まず、知り合いや親戚しんせきたよ縁故えんこ疎開そかいすすめ、縁故えんこ疎開そかいできない子どもたちには集団しゅうだん疎開そかいをさせました。
 広島市では、1945年(昭和20年)から集団しゅうだん疎開そかいが始まり、学童疎開そかい人数は、縁故えんこ疎開そかい集団しゅうだん疎開そかい合わせて、2万人以上いじょうおよびました。
 学童疎開そかいで親元をはなれていた子どもたちの多くは被爆ひばくまぬがれましたが、父親や母親が原爆げんばく犠牲ぎせいとなり、身寄みよりがなくなった子どもたちもいました。かれらは「原爆げんばく孤児こじ」とばれ、その数は2,000人から6,500人と言われていますが、実態じったい正確せいかくにはつかめていません。

 身寄みよりのない子どもたちは、広島戦災せんさい育成いくせい所などの収容しゅうよう施設しせつに引き取られました。しかし、施設しせつでの生活になじめずげだす子どもたちや救援きゅうえんの手自体が回らなかった子どもたちもいて、おさないながらに自らの力で生活していかなければならず、非行ひこう余儀よぎなくされることも多くありました。
 施設しせつでの生活も決してめぐまれたものとはいえず、食糧しょくりょう確保かくほが大きな課題かだいとなりました。海外から送られた援助えんじょ物資ぶっしや、精神せいしんてき養子ようし縁組えんぐみむす精神せいしん養子ようし運動は、施設しせつらす子どもたちにとって大きなささえになりました。

迷子まいご収容しゅうよう

1945年(昭和20年)8月8日、比治山ひじやま国民こくみん学校に迷子まいご収容しゅうよう所ができ、原爆げんばくにより肉親や家をうしなった子どもたちがらしていました。

1945年(昭和20年)まつころ
東雲町(現在げんざいの上東雲町)・比治山ひじやま国民こくみん学校校庭
撮影さつえい/川本 俊雄としお氏 提供ていきょう/川本 祥雄よしお

まちかどの少年

戦後せんご10年近くたっても、まちのあちこちで、こんな少年の姿すがたをよく見かけた。
佐々木ささき雄一郎ゆういちろう「写真記録きろくヒロシマ25年」朝日新聞社より)

1954年(昭和29年) 八丁堀はっちょうぼり付近ふきん
撮影さつえい佐々木ささき 雄一郎ゆういちろう
提供ていきょう塩浦しおうら 雄悟ゆうご