遺骨いこつ発掘はっくつ

 似島にのしまでは、被爆ひばくから数十年をても原爆げんばく被災ひさいした人のものと思われる遺骨いこつが見つかり、遺骨いこつ発掘はっくつ確認かくにん作業が行われてきました。

「ふるさと似島にのしま ふるさと似島にのしま編集へんしゅう委員会」から作成さくせい

番号発掘はっくつ年月場  所発掘はっくつされたもの
1

1971年(昭和46年)10月から11月

似島にのしま中学校・農業実習地

遺骨いこつ推定すいてい617体
ナイフ、指輪ゆびわ革靴かわぐつなどの遺品いひんやく60点

2

1990年(平成へいせい2年)9月から11月

解体かいたい工事中の市営しえい住宅じゅうたく地から発見された元馬匹ばひつ検疫けんえき所・馬匹ばひつ焼却炉しょうきゃくろ遺構いこう

スコップ300はい分の骨灰こつばい骨片こつへん

3

2004年(平成へいせい16年)5月から7月

1971年(昭和46年)に作業した場所の隣接りんせつ

遺骨いこつ推定すいてい85体
遺品いひんやく65点

遺骨いこつ発掘はっくつ作業現場げんば

1971年(昭和46年)、似島にのしま中学校・農業実習地で遺骨いこつ発掘はっくつ作業が行われました。
作業現場げんば発掘はっくつされた遺骨いこつを前にいのる女性じょせい

1971年(昭和46年)
撮影さつえい佐々木ささき 雄一郎ゆういちろう氏 提供ていきょう塩浦しおうら 雄悟ゆうご

26年ぶりの再会さいかい

脇田わきだ文雄ふみおさんの妹、脇田わきだ美智枝みちえさん(当時14さい)は、建物たてもの疎開そかい作業中に被爆ひばくし、金輪島かなわじま収容しゅうようされ、9日にくなりました。
被爆ひばく翌日よくじつから美智枝みちえさんをさがしていた父親の彦一ひこいちさんは、美智枝みちえさんの遺体いたい似島にのしまに送られたことを知り、似島にのしまへ行きましたが、わたされたのは遺骨いこつではなく、数本の遺髪いはつでした。
それから26年後の1971年(昭和46年)11月、広島市が似島にのしまで行った遺骨いこつ発掘はっくつ作業で、この定期入れが発見されました。定期入れのそばにあった遺骨いこつ美智枝みちえさんのものであると判明はんめいし、26年ぶりに美智枝みちえさんの遺骨いこつは家族のもとに帰りました。

寄贈きぞう脇田わきだ 文雄ふみお

君を想う

-あのときピカがなかったら-