あの日
1945年(昭和20年)8月6日。
広島市では、前日の夜から、空襲警報の発令と解除が繰り返されていました。そのたびに、人々は避難を繰り返し、寝る間もないほどでした。
敵機来襲のおそれがなくなり、午前7時31分、ようやく警戒警報が解除され、一息ついた人々は防空壕や指定の避難場所から帰宅して遅い朝食をとったり、動員先や職場へ出かけて行きました。
広島市中心部では、空襲による火災の延焼を防ぎ、避難場所を確保するため、大がかりな建物の取り壊し作業が行われており、原爆が投下された午前8時15分には、整列して点呼を受けたり、すでに作業を始めている人々もいました。
建物疎開作業
建物疎開とは、空襲により火災が周辺に広がるのを防ぐため、あらかじめ建物を取り壊して防火帯を作ることです。
広島市では、1944年(昭和19年)11月に建物疎開が始まりました。
8月6日も、現在の平和大通り一帯などで、大規模な建物疎開作業が行われていました。
作業には、国民学校高等科や中等学校・高等女学校1・2年生(12〜14歳)を中心とする多くの生徒や、40代の男性や女性を中心に成人男女によって組織された国民義勇隊が市内及び周辺町村から動員されており、広島市中心部には多くの人々が集まっていました。
家屋を引き倒す
作者/濱田 義雄氏
朝日俊明さん
動員学徒の腕章
朝日輝一さんの三男、朝日俊明さん(当時13歳)が被爆したとき身に着けていた腕章です。
俊明さんは重傷を負いながらも火の中をくぐって川岸をさかのぼり、郊外まで逃れたところを知人に発見されました。
夕方、自宅に連れ帰られ、家族が懸命に看護しましたが、9日の朝、「お世話になりました」と言い残し、母親のひざの上で亡くなりました。
寄贈/朝日 輝一氏
堀弘明さん
シャベル
堀輝人さんの長男、堀弘明さん(当時13歳)は、建物疎開作業中に被爆し、全身やけどを負いました。似島に運ばれていたところを輝人さんに発見されましたが、10日朝、輝人さんと祖母に見守られながら亡くなりました。
このシャベルは弘明さんが作業するときに使っていたものです。被爆当日は自宅に置いていました。
寄贈/堀 輝人
氏