君を想う
被災した人々は家族を想い、その気持ちは傷ついた体を動かしました。
耐えがたい苦しみのなかで、最期まで想い続けたのは大切な家族のことでした。
岡本昭三さん
お母さんを待っていた
岡本和子さんの弟、岡本昭三さん(当時12歳)は、建物疎開作業現場で被爆しました。大やけどを負い、体の全面に無数のガラス片が深く突き刺さりました。
昭三さんは戸坂水源地付近まで逃げましたが力尽き、通りかかった人に家族への伝言を頼みました。知らせを受けた姉の智恵さんは昭三さんを迎えに行き、自宅へ連れ帰って必死で看病をしました。昭三さんは、口に含ませた一粒のブドウをおいしそうに食べました。
翌日、母親のマサヨさんが智恵さん宅に駆けつけると、昭三さんはマサヨさんが来るのを待っていたかのように、間もなく息を引き取りました。
寄贈/岡本 和子氏
松田順子さん 松田儀一郎さん
お父さん、待って
数村澄江さんの父、松田儀一郎さん(当時48歳)は爆心地近くで被爆し、背中に大やけどを負いました。
翌日から家族が必死で看病しましたが、8日、最期まで末っ子の澄江さんのことを心配しながら亡くなりました。
数村澄江さんの姉、松田順子さん(当時13歳)は学徒動員先で被爆し、手の指と背面に大やけどをし、必死で逃げる途中に力尽きて動けなくなりました。
7日、兄の博夫さんが順子さんを連れ帰り、家族で看病しましたが、24日、順子さんは「お父さん待って」と言いながら、儀一郎さんの後を追うように亡くなりました。
このワイシャツは儀一郎さんが、モンペのひもは順子さんが当日身に着けていたものです。
寄贈/数村 澄江氏
娘に一目会いたい
田川松代さんの姉、田川アサヨさん(当時23歳)は、母親の谷井ワカノさんとともに建物疎開の後片付けのために行った雑魚場町で被爆し、全身にやけどを負いました。
アサヨさんは古田町の実家に預けていた娘(当時2歳)の身を案じ、必死で帰りました。娘さんは「お母さんが帰って来たとき、お母さんの顔は真っ黒で目ばかり光っていた」のを覚えているそうです。
アサヨさんは娘さんの無事な姿を確認し、翌7日に亡くなりました。
このブラウスは被爆当日アサヨさんが着ていたものです。アサヨさんと一緒に被爆したワカノさんは遺骨さえ見つかっていません。
寄贈/田川 松代氏
原田武子さん
お母さんには坊やがいるでしょう
原田充子さんの長女、原田武子さん(当時14歳)は広島駅で被爆しました。正面から閃光を受け、全身大やけどを負い、学徒動員先の日本製鋼の寮に収容されました。
駆けつけた充子さんの看病の甲斐あって、武子さんは次第に回復しましたが、9月17日になって容体が急変しました。
武子さんは「お母さんには坊やがいるでしょう、早く帰って」と国民学校5年生の弟を気遣いつつ、「頼むからお父さんのところへ行かせて」と8月6日に亡くなった父親を想う言葉を残し、23日、充子さんに看取られながら亡くなりました。
このモンペは比治山の自宅に置いてあったもので、武子さんの遺品となりました。
寄贈/原田 充子氏
娘を頼む
宮谷正徳さん
宮谷潤吉さんの義父、宮谷正徳さん(当時28歳)は、応召先で被爆しました。背中や頭、顔に大やけどを負い、手の指はひっつき、耳は取れたような状態でした。
8月11日、正徳さんが福屋に収容されていることを知った家族が正徳さんを迎えに行くと、正徳さんは治療を受けずに、埃だらけの床に横たわっていました。その頭には負傷状況が書かれた紙片が付けられていました。
家族は、その日のうちに正徳さんを自宅に連れ帰り、必死に看病しましたが、正徳さんは「殺してください」と苦しみ続け、13日、見守る人々に丁寧にお礼を言い、「娘の順子を頼む」と言い残して亡くなりました。
寄贈/宮谷 潤吉氏
弟を孤児にしてはならない
四竃揚さんの姉、四竃佑子さん(当時15歳)は、学徒動員先で被爆しました。倒壊した建物の下敷きとなり、頭などに大けがを負いました。
8月7日、家族全員が死んでしまったと思った佑子さんは、疎開先の弟たちが孤児になってしまうことを案じ、重傷の身をおして、避難先から弟たちに宛てて手紙を書きました。手紙は2日後に弟たちの手元に届き、一家はやがて再会することができました。
8月30日、佑子さんの体調が悪化します。佑子さんは「佑子はこれまでお父ちゃんに随分叱られたけどやっぱりいいお父ちゃんでした」、「お母ちゃんも早く天国に来てくれるといいけれど、それじゃ招ちゃんたちがかわいそうだから、そんなに早く来てはいけない」などと両親への思いを語り、9月4日に息を引き取りました。
寄贈/四竃 揚氏
弟たちへの手紙
四竃佑子さん
佑子さんの手紙
クリックすると拡大表示します。