壊滅
午前8時15分、原子爆弾が投下され、広島市は一瞬にして壊滅しました。
原爆が投下された時、広島市内には35万前後の人がいたと考えられています。
これは、住民、軍関係者、建物取り壊し作業に動員された周辺町村の人々などを合わせた数字で、当時植民地だった朝鮮や台湾、中国大陸からの人々が含まれ、その中には強制的に徴用された人々もいました。また、中国や東南アジアからの留学生やアメリカ軍捕虜などの外国人も含まれていました。
原爆によって死亡した人の数は、現在も正確にはつかめていません。これまで、いくつかの推定の数字が公表されていますが、広島市では急性障害が一応おさまった1945年(昭和20年)12月末までに、約14万人(誤差±1万人)が死亡したと推計しています。
島病院の表玄関
原子爆弾は島病院の上空、約600メートルでさく裂しました。
島病院は、1933年(昭和8年)に開院しました。近代的なレンガ造りの2階建てで、玄関の両側にある丸い柱と円形の窓が印象的な建物でした。原爆により、約75人の患者をはじめ、病院にいた全員が亡くなりました。
島薫院長は、被爆前日から世羅郡甲山町の病院へ出張手術に行っていて、被爆の知らせを聞き、6日の夜に広島に戻りました。
1945年(昭和20年)10月
撮影/林 重男氏 提供/林 恒子氏
「私が生き残り申し訳ない」
【作者のことばから】
私は母、妹、弟と舟入から横川行きの市電に乗った。十日市電停を発車後まもなく、真っ暗闇になり、何がなんだかわからない。四方火の海、赤熱の地獄である。
私は当時、父の実家に疎開していました。母・妹・弟は舟入に住んでいて、8月5日、母に会いに帰り4人で一夜を過ごし、6日朝みんなで市電に乗り被爆。
私が舟入の自宅に帰らなければ、母、妹、弟は悲惨なことにならず、幸せな人生を過ごしたかも知れない。私が生き残り、申し訳なく思い、涙がこぼれる。
作者/松本 政夫氏
塚本静江さん
「いつもの時間に出ていたら」
塚本ハナヨさんの二女、塚本静江さん(当時23歳)は東白島町の自宅から出勤途中、爆心地近くの紙屋町交差点で被爆しました。静江さんはその日に限り、職場の指示で、いつもより遅い8時ごろに自宅を出たのでした。
父の利夫さん(当時51歳)は静江さんを捜し回り、7日、井口村に自力で避難していることが分かりました。静江さんは、声を聞くまで本人とは分からないほど全身に大やけどを負っていましたが、かろうじて意識があり、利夫さんが来てくれたことを大変喜びました。
家族の懸命の看病の甲斐なく、10日、静江さんは亡くなりました。
寄贈/塚本 ハナヨ氏
堂黒勉さん
「せっかく作ってくれたから」
堂黒みどりさんの弟、堂黒勉さん(当時20歳)は学徒動員されていましたが、6日は休みでした。
母のひふみさんが知らずに弁当を作ったため、勉さんは「せっかくだから行こう」と家を出ました。
勉さんは動員先へ向かう途中、鷹野橋のバス停で被爆し吹き飛ばされ、人相が変わるほど、顔にひどいやけどを負い、シャツは血で体に張り付きました。
勉さんの両親は、帰ってこない息子を心配し懸命に市内を捜し回りました。10日になって、勉さんが日赤病院に収容されていることを知り、自宅に連れて帰りましたが、勉さんは日に日に弱り、27日、息を引き取りました。
寄贈/堂黒 みどり氏
北林哲夫さん
息子のズボン
北林はつゑさんの三男、北林哲夫さん(当時12歳)は7月19日、父親の祐道さん(当時53歳)が和歌山から広島に転任したのを機に広島県立第二中学校に転入しました。転入から27日目、建物疎開作業中に被爆しました。
哲夫さんの両親は市内を捜し回りましたが、哲夫さんと行き違いになりました。自宅近くまで戻ってきていた哲夫さんの顔はゴムまりのように腫れあがり、白い薬がべったりと塗られ、目も鼻も区別がつきませんでした。
7日、哲夫さんはうわ言のように軍歌を口ずさみながら亡くなりました。
祐道さんは哲夫さんと行き違いになったことを悔やみ、自身の日誌の中で「午前午後2回すれ違いたるものにて、悲運痛恨」とその思いをつづっています。
寄贈/北林 はつゑ氏