ヒロシマの残像(ざんぞう)

佐々木(ささき)氏の写真には、同じ場所を数年おきに撮影(さつえい)し、街と()らしの変化を記録したものが多数ある。ファインダーをのぞく佐々木(ささき)氏の脳裏(のうり)には、いつも被爆後(ひばくご)の変わり果てた街の姿(すがた)()かんでいたのではないだろうか。あの日の広島を記憶(きおく)して()しい、消えていった多くの人々がいたことを(わす)れないで()しい、そんな佐々木(ささき)氏の願いが伝わってくるようだ。

本通商店街 
平田屋町
現在(げんざい)の本通)

昭和20(1945)年

安田銀行広島支店前付近から東を見る。広島を代表する本通商店街は、一瞬(いっしゅん)にして廃虚(はいきょ)と化した。右端(みぎはし)爆風(ばくふう)()しつぶされた下村時計店とキリンビヤホール、左後方に中国新聞社が見える。


昭和24(1949)年

店舗(てんぽ)(のき)(なら)べた本通商店街。昭和23(1948)年に「広島本通商業協同組合」が発足し、活性化(かっせいか)へ向けて本格的(ほんかくてき)な取組が始まっていた。


昭和28(1953)年

(とし)()でにぎわう本通商店街。クリスマスセールの広告や、正月用のしめ(なわ)(かざ)りが見える。市税(しぜい)納付(のうふ)(すす)める横断幕(おうだんまく)に「平和都市」という言葉が使われている。
山口町電停付近から 
山口町
現在(げんざい)の銀山町)

昭和20(1945)年

爆心地(ばくしんち)から約1,100m、山口町(現在(げんざい)の銀山町)電停付近の相生通りにて西を望む。左側に残る建物は、前方から、日本勧業銀行(かんぎょうぎんこう)広島支店、中国新聞社本館・新館、福屋百貨店。


昭和29(1954)年

北側に大きく拡幅(かくふく)された相生通りを、ボンネットバス、自家用車、トラックなどが行き交う。電車軌道(でんしゃきどう)は、移設工事(いせつこうじ)のため一時的に複々線(ふくふくせん)となっている。

 
流川教会  
上流川町
現在(げんざい)鉄砲町(てっぽうちょう)

昭和20(1945)年

爆心地(ばくしんち)から約900mの流川教会は、爆風(ばくふう)火災(かさい)によって屋根が落ち、焼けただれた(かべ)(とう)が残るのみとなった。しかし、被爆(ひばく)翌年(よくねん)の春には、()(あと)礼拝(れいはい)が始まり、屋根も()けかえられた。


昭和25(1950)年

谷本清(たにもときよし)牧師(ぼくし)()びかけにより、国際的(こくさいてき)募金活動(ぼきんかつどう)展開(てんかい)され、幼稚園(ようちえん)や教育館が整備(せいび)された。広島市内では、戦後最初に誕生(たんじょう)した幼稚園(ようちえん)であった。

駅前大橋
松原町


昭和28(1953)年

広島駅前から南西に猿猴川(えんこうかわ)を見下ろす。駅前通りの新設(しんせつ)(ともな)い、駅前大橋の架橋(かきょう)が決まった。工事の開始を告げる看板(かんばん)が見える。


昭和29(1954)年

駅前大橋の建設(けんせつ)は昭和28(1953)年に始まったが、予算不足のため、先に南半分を建設(けんせつ)し、後で北半分を建設(けんせつ)することになった。昭和29(1954)年に南半分が完成。木製(もくせい)欄干(らんかん)が置かれている。


昭和40(1965)年

昭和29(1954)年から広島駅前の立ち退()きが進められ、昭和30(1955)年に駅前大橋までの道路が完成。昭和31(1956)年8月、駅前大橋の全面開通により、広島駅と主要な幹線道路(かんせんどうろ)が結ばれた。