都市の再建(さいけん)

建設(けんせつ)(おく)

 平和記念都市の建設(けんせつ)において最も困難(こんなん)な事業が、土地区画整理であった。道路の拡幅(かくふく)新設(しんせつ)には、予定地に建つ家屋の移転(いてん)が必要となる。土地所有者への換地(かんち)がなかなか決まらない、土地を持たない居住者(きょじゅうしゃ)が立ち退()きを(こば)む、などの問題から事業は難航(なんこう)確保(かくほ)できた用地を少しずつ整地するという状態(じょうたい)が続き、道路の舗装(ほそう)は後回しとなった。

火災後(かさいご)の広島駅前

昭和24(1949)年 松原町

昭和24(1949)年3月27日に広島駅前の民衆(みんしゅう)マーケットを全焼する火災(かさい)があった。この一帯は緑地帯とデパートになる予定であったが、()(あと)には、1カ月足らずで(ふたた)び550戸の箱型(はこがた)店舗(てんぽ)(なら)んだ。
 

八丁堀(はっちょうぼり)交差点(こうさてん)に残るバラック

昭和28(1953)年
鉄砲町(てっぽうちょう)現在(げんざい)八丁堀(はっちょうぼり)

八丁堀(はっちょうぼり)交差点(こうさてん)から西方を見る。左の福屋百貨店新館と右の中国銀行の間に、解体中(かいたいちゅう)の福屋百貨店旧館(きゅうかん)と立ち退()き前の家屋が見える。移転(いてん)や立ち退()きの問題は、工事が(おく)れる大きな原因(げんいん)となった。

雨上がりの相生通り

昭和29(1954)年
八丁堀(はっちょうぼり)現在(げんざい)胡町(えびすちょう)

福屋百貨店新館前。拡幅(かくふく)され電車軌道(でんしゃきどう)移設(いせつ)された相生通り。舗装(ほそう)(おく)れ、下水道も完備(かんび)されていなかったため、雨が()るとたちまちぬかるみ、歩行者や運転者を(なや)ませた。
 

大正橋

昭和29(1954)年

爆心地(ばくしんち)から約2,030m、猿猴川(えんこうがわ)()かる大正橋は、原爆(げんばく)により破損(はそん)し、翌月(よくげつ)枕崎(まくらざき)台風によって橋桁(はしげた)が流失した。残った部分に、(かり)木造橋(もくぞうきょう)()ぎ足されている。本格的(ほんかくてき)()()えは、昭和33(1958)年になってようやく行われた。