復興(ふっこう)の光と(かげ)

食糧(しょくりょう)物資(ぶっし)の不足

被爆後(ひばくご)、広島・横川・己斐(こい)駅前などにヤミ市が発生した。食糧(しょくりょう)の配給不足に苦しむ市民は、法外な価格(かかく)にもかかわらず、生きていくためにヤミ市を利用した。ヤミ市に関連して(あらわ)れたのが、当時「かつぎ屋」と()ばれたヤミ米等の運搬人(うんぱんにん)であった。大きな(ふくろ)背負(せお)郊外(こうがい)へ買い出しに出かける消費者が、次第に商人化して「かつぎ屋」となる場合が多かった。
 食糧(しょくりょう)に次いで不足していたのは、衣類と日用品であった。衣類については軍用品が転用されたが、(かさ)鍋釜(なべかま)・バケツ・ゴム長靴(ながぐつ)・自転車のタイヤといった日用品は、入手が困難(こんなん)であった。


「かつぎ屋」と易者(えきしゃ)と花売り

昭和24(1949)年 胡町(えびすちょう)

福屋百貨店南の(えびす)通りから東を望む。「かつぎ屋」と易者(えきしゃ)と花売りのいる、戦後の街の風景である。

輸入米(ゆにゅうまい)の積み下ろし

昭和25(1950)年
広島港(宇品港(うじなこう)

 昭和23(1948)年6月21日、連合国軍最高司令官総司令部(そうしれいぶ)は外国米の輸入(ゆにゅう)を決定。広島港にも、昭和25(1950)年から外国米輸入船(がいこくまいゆにゅうせん)が入港した。

修理屋(しゅうりや)

昭和27(1952)年
場所不明

戦中から戦後しばらくの間、鍋釜(なべかま)をはじめとする金属製品(きんぞくせいひん)貴重品(きちょうひん)であった。(あな)があいても簡単(かんたん)に買い()えず、修理(しゅうり)して使うのが当たり前だった。(かさ)や金ダライ等を修理(しゅうり)する行商人が、街を(めぐ)り歩いた。
 

廃品回収(はいひんかいしゅう)

昭和28(1953)年
基町(もとまち)

相生橋東詰付近(ひがしづめふきん )廃品回収(はいひんかいしゅう)をする男性(だんせい)手製(てせい)の荷車を引いて市内を回り、ゴミや瓦礫(がれき)の中から、金属製品(きんぞくせいひん)陶器類(とうきるい)を集めて売っている。働きたくても仕事のない時代、廃品回収(はいひんかいしゅう)は、現金収入(げんきんしゅうにゅう)を得るための身近な手段(しゅだん)の一つであった。

住居(じゅうきょ)をめぐる問題

食糧(しょくりょう)物資(ぶっし)の不足は昭和24(1949)年ごろから改善(かいぜん)の兆しが見えてきたが、住宅不足(じゅうたくぶそく)は一向に解消(かいしょう)しなかった。被災者(ひさいしゃ)引揚者用(ひきあげしゃよう)急造(きゅうぞう)された公営住宅(こうえいじゅうたく)は、数が足りないうえに、急速に老朽化(ろうきゅうか)していった。廃材(はいざい)で建てたバラックでの生活を続ける人もいれば、土地区画整理のため、苦労して建てた家や店舗(てんぽ)からの立ち退()きを(せま)られる人もいた。


バラックに()らす老夫婦(ろうふうふ)

昭和27(1952)年 東千田町付近

被爆(ひばく)から10年近く()っても、戦時中に作られた防空壕(ぼうくうごう)()らす人、焼け残ったトタン板や廃材(はいざい)で建てた小屋に住む人が少なくなかった。


建てたばかりの家を自分で(こわ)

昭和28(1953)年 京橋町

土地区画整理により、せっかく建てた住居(じゅうきょ)から立ち退()きを(せま)られる人々もいた。この男性(だんせい)は、建てたばかりの家を自分で(こわ)している。

老朽化(ろうきゅうか)するバラック

昭和28(1953)年 基町(もとまち)

基町(もとまち)西練兵場(にしれんぺいじょう)(あと)に建てられた公営住宅(こうえいじゅうたく)やバラックは、応急的(おうきゅうてき)建築(けんちく)であったため、老朽化(ろうきゅうか)が進むのも早く、防災(ぼうさい)防犯(ぼうはん)衛生(えいせい)の面から問題視(もんだいし)されるようになっていた。しかし、行くあてのない住人は、ここでの生活を続けるしかなかった。
 

橋の下で()らす

昭和36(1961)年 平和大橋

平和大橋から東を望む。平和大通りの緑地帯に「警笛(けいてき)やめて注意と徐行(じょこう)」の広告塔(こうこくとう)が立てられている。騒音(そうおん)が問題になるほど自動車の数が()えても、橋の下には、足場を組んで作った住居(じゅうきょ)()らす人がいた。