原爆(げんばく)の悲劇(ひげき)は、罪(つみ)のない子どもたちにも容赦(ようしゃ)なく襲(おそ)いかかった。食糧(しょくりょう)・衣料・住宅(じゅうたく)の不足は、育(そだ)ち盛(ざか)りの子どもたちに深刻(しんこく)な影響(えいきょう)を与(あた)えた。家計を助けるために働かなくてはならない子どもや、肉親を亡(な)くして路頭に迷(まよ)い、靴磨(くつみが)きをしたりヤミ市の仕事を手伝いながら暮(く)らす子どももいた。 街が落ち着きを取り戻(もど)した後も、市民の多くは貧(まず)しい暮(く)らしを続けていた。しかし、子どもたちの表情(ひょうじょう)には、戦争が終わった解放感(かいほうかん)と生きる意欲(いよく)が感じられる。その笑顔とたくましさは、大人たちにとって何よりの支(ささ)えであったに違(ちが)いない。 大人も子どもも、食べていくために、なりふり構(かま)わず懸命(けんめい)に生きた。広島の復興(ふっこう)は、ここから始まった。