ヒロシマの子どもたち

 原爆(げんばく)悲劇(ひげき)は、(つみ)のない子どもたちにも容赦(ようしゃ)なく(おそ)いかかった。食糧(しょくりょう)・衣料・住宅(じゅうたく)の不足は、(そだ)(ざか)りの子どもたちに深刻(しんこく)影響(えいきょう)(あた)えた。家計を助けるために働かなくてはならない子どもや、肉親を()くして路頭に(まよ)い、靴磨(くつみが)きをしたりヤミ市の仕事を手伝いながら()らす子どももいた。
 街が落ち着きを取り(もど)した後も、市民の多くは(まず)しい()らしを続けていた。しかし、子どもたちの表情(ひょうじょう)には、戦争が終わった解放感(かいほうかん)と生きる意欲(いよく)が感じられる。その笑顔とたくましさは、大人たちにとって何よりの(ささ)えであったに(ちが)いない。
 大人も子どもも、食べていくために、なりふり(かま)わず懸命(けんめい)に生きた。広島の復興(ふっこう)は、ここから始まった。



靴磨
(くつみが)
きの兄弟

昭和23(1948)年
広島駅前(松原町)

広島駅前で靴磨(くつみが)きをしていたこの兄弟は実にけなげによく働いた。外国の婦人(ふじん)遠慮(えんりょ)がちに足を差し出すと、少年たちはすぽっと(くつ)抜き取(ぬきと)り、(いきお)いよくブラシをかけ始めた。婦人(ふじん)は料金以上の金を(わた)して去った。

佐々木雄一郎(ささきゆういちろう)「写真記録 ヒロシマ25年」朝日新聞社)




街角の少年

昭和29(1954)年
八丁堀付近(はっちょうぼりふきん)

戦後10年近くたっても、街のあちこちで、こんな少年の姿(すがた)をよく見かけた。

佐々木雄一郎(ささきゆういちろう)「写真記録 ヒロシマ25年」朝日新聞社)



雪をほおばる子どもたち

昭和25(1950)年
猿楽町(さるがくまち)・細工町(大手町一丁目)

放射能(ほうしゃのう)があるから食べちゃいけんよ」大人たちは心配したが子どもらは無心に爆心地(ばくしんち)の雪をほおばった。

佐々木雄一郎(ささきゆういちろう)「写真記録 ヒロシマ25年」朝日新聞社)