復興(ふっこう)の光は、あらゆる場所や人を一様に照らしたのではなかった。陰(かげ)に入った人々は、都市の片隅(かたすみ)で、長く厳(きび)しい窮乏(きゅうぼう)生活を続けねばならなかった。平和記念都市建設(としけんせつ)の過程(かてい)に、こうした現象(げんしょう)があったことを、佐々木(ささき)氏の写真は訴(うった)えている。
壊滅的(かいめつてき)被害(ひがい)を受けた本通商店街では、昭和22(1947)年8月に土地区画整理が始まり、道幅(みちはば)が6mから11mに拡張(かくちょう)された。その後も通りの電柱を撤去(てっきょ)するなど整備(せいび)が進み、金座街(きんざがい)・新天地等とともに、本格的(ほんかくてき)なにぎわいを見せ始めた。ひっ迫(ぱく)した暮(く)らしの中でも、人々は文化や娯楽(ごらく)を求めた。娯楽(ごらく)の代表は、比較的(ひかくてき)安価(あんか)に楽しめる映画(えいが)であった。