復興(ふっこう)の光と(かげ)

復興(ふっこう)の光は、あらゆる場所や人を一様に照らしたのではなかった。(かげ)に入った人々は、都市の片隅(かたすみ)で、長く(きび)しい窮乏(きゅうぼう)生活を続けねばならなかった。平和記念都市建設(としけんせつ)過程(かてい)に、こうした現象(げんしょう)があったことを、佐々木(ささき)氏の写真は(うった)えている。

繁華街(はんかがい)復活(ふっかつ)

壊滅的(かいめつてき)被害(ひがい)を受けた本通商店街では、昭和22(1947)年8月に土地区画整理が始まり、道幅(みちはば)が6mから11mに拡張(かくちょう)された。その後も通りの電柱を撤去(てっきょ)するなど整備(せいび)が進み、金座街(きんざがい)・新天地等とともに、本格的(ほんかくてき)なにぎわいを見せ始めた。
ひっ(ぱく)した()らしの中でも、人々は文化や娯楽(ごらく)を求めた。娯楽(ごらく)の代表は、比較的(ひかくてき)安価(あんか)に楽しめる映画(えいが)であった。

本通商店街を歩く駐留軍兵士(ちゅうりゅうぐんへいし)の家族

昭和23(1948)年
平田屋町(現在(げんざい)の本通)

道幅(みちはば)の広くなった本通に商店が(のき)(なら)べ始めたが、買い物を楽しむゆとりのある人は少なかった。進駐軍(しんちゅうぐん)の家族らしき女性(じょせい)が買い物をしながら歩いている。優雅(ゆうが)(よそお)いに市民の視線(しせん)が集まる。


広極商店街

昭和24(1949)年 大手町二丁目(現在(げんざい)の紙屋町二丁目)

 昭和23(1948)年、本通の 西端(せいたん) 近くに、T字型の商店街「広極」ができた。この写真は、本通側の入口から北に向かって 撮影(さつえい)したもの。昭和47(1972)年に現在(げんざい)のサンモールとなった。


(にぎ)わいの(もど)った本通商店街

昭和26(1951)年
平田屋町(現在(げんざい)の本通)

看板(かんばん)がひしめき、繁華街(はんかがい)らしいたたずまいを見せ始めた本通商店街。ビルの改築(かいちく)も行われている。買物客の表情(ひょうじょう)服装(ふくそう)には、ゆとりが感じられる。
 

映画看板(えいがかんばん)水浸(みずびた)しの道路

昭和28(1953)年
八丁堀(はっちょうぼり)現在(げんざい)胡町(えびすちょう)

映画館(えいがかん)東洋座(とうようざ)前、雨が()ると池のような水たまりができた。館内では、話題のミュージカル「雨に(うた)えば」を上映中(じょうえいちゅう)だが、広告看板(こうこくかんばん)の前には復興(ふっこう)途上(とじょう)(きび)しい現実(げんじつ)があった。