平和の象徴(しょうちょう)


原爆死没者(げんばくしぼつしゃ)慰霊碑(いれいひ)建設(けんせつ)が始まる

昭和27(1952)年 中島本町(現在(げんざい)の中島町)

埴輪型(はにわがた)のデザインで設計(せっけい)された原爆死没者(げんばくしぼつしゃ)慰霊碑(いれいひ)。昭和27(1952)年3月着工、同年8月6日に除幕式(じょまくしき)が行われた。正式名称(せいしきめいしょう)は「広島平和都市記念碑(としきねんひ)」。
 

工事が長引く平和記念資料館(しりょうかん)

昭和27(1952)年
材木町(現在(げんざい)の中島町)

国庫補助(こっこほじょ)大幅(おおはば)縮小(しゅくしょう)物価(ぶっか)高騰(こうとう)による資金不足(しきんぶそく)で、平和記念施設(しせつ)建設(けんせつ)はたびたび中断(ちゅうだん)した。平和記念資料館(しりょうかん)の西側で、小さな子どもをリヤカーに乗せた女性(じょせい)がゴミを回収(かいしゅう)している。

作業の合間の昼食

昭和27(1952)年
材木町(現在(げんざい)の中島町)

整地作業の合間、連れてきた子どもに弁当(べんとう)を食べさせる女性(じょせい)。戦争や原爆(げんばく)で働き手を失った家庭では、子育て中の女性(じょせい)も外に出て働かなくてはならなかった。
 

公会堂・平和記念資料館(しりょうかん)・平和記念館の完成

昭和31(1956)年 木挽町(こびきちょう)現在(げんざい)の中島町)より

左の広島市公会堂は、財界(ざいかい)寄付(きふ)により昭和30(1955)年3月に完成した。右の平和記念館は同年5月末、平和記念資料館(しりょうかん)は8月6日に完成し、平和記念施設(しせつ)が顔をそろえた。写真は翌年(よくねん)8月1日の撮影(さつえい)
 

店をたたんだ大衆食堂(たいしゅうしょくどう)

昭和30(1955)年 中島本町(中島町)

平和記念施設(へいわきねんしせつ)の完成が間近になっても、元安橋付近には約20戸の家屋が残っていた。昭和30(1955)年3月から強制(きょうせい)立ち退()きも行われた。右前方のバラックは、閉店(へいてん)した大衆食堂(たいしゅうしょくどう)。後方の整地を終えた部分は植樹(しょくじゅ)され、ロープが()られている。