変わり果てた故郷(こきょう)

昭和20(1945)年8月18日、佐々木氏(ささきし)は、東京から故郷(こきょう)・広島に帰った。屋根の無いホームから駅前に出ると、見渡(みわた)(かぎ)り一面の焦土(しょうど)が広がっていた。最初に向かったのは、生家のある西十日市町。しかし、生家は跡形(あとかた)もなく、家族を(さが)し出すこともできなかった。
 せめて肉親がここで生きていたことを記録に残そうと、カメラを(かま)えた。それが、以後長きにわたる撮影(さつえい)の始まりであった。

■肉親を失う

「もはや肉親の死は(うたが)いようがなかった。無意識(むいしき)にカメラをかまえ、シャッターをきっていた。そのときの、うつろなシャッター音は、いまも耳底に残って(はな)れない。」(佐々木雄一郎(ささきゆういちろう)「写真記録 ヒロシマ25年」朝日新聞社)

自宅跡(じたくあと)

昭和20(1945)年
西九軒(にしくけん)町(現在(げんざい)の西十日市町 爆心地(ばくしんち)から約800m)

自宅周辺(じたくしゅうへん)は一面の焼け野原と化していた。佐々木氏(ささきし)は、見覚えのあるかまどの(あと)や茶わんのかけらで家の位置を確認(かくにん)し、家族の最期を(さと)った。ここで母親と長兄夫婦(ちょうけいふうふ)被爆(ひばく)した。

十日市電停付近の被災電車(ひさいでんしゃ)

昭和20(1945)年
十日市町(現在(げんざい)の十日市町一丁目 爆心地(ばくしんち)から約700m)

焼け()げた電車の車体に、炭で兄の消息が記されていた。自宅(じたく)防空壕(ぼうくうごう)にいて外傷(がいしょう)を負わなかった兄だが、8月30日、佐々木(ささき)氏が(たず)ねて行った避難先(ひなんさき)死亡(しぼう)した。

■街が消えた

佐々木(ささき)氏の撮影範囲(さつえいはんい)は、自宅周辺(じたくしゅうへん)から市内中心部へと広がっていった。焦土(しょうど)と化したこの地に、かつて街があり、人々の(いとな)みがあった。その痕跡(こんせき)を記録するため、佐々木(ささき)氏は連日、廃虚(はいきょ)の中を歩き回った。

広瀬神社(ひろせじんじゃ)

昭和20(1945)年
広瀬元町(ひろせもとまち)現在(げんざい)広瀬町(ひろせちょう) 爆心地(ばくしんち)から約930m)

佐々木氏(ささきし)自宅(じたく)に近い広瀬神社(ひろせかんじゃ)社殿(しゃでん)も木々も()()くされてしまった。被爆(ひばく)したこま犬や灯ろうは、今も境内(けいだい)に残っている。

広島駅

昭和20(1945)年
松原町(爆心地(ばくしんち)から約1,900m)

京橋町から北に向かって、広島鉄道病院の()(あと)とその先の広島駅を望む。広島鉄道病院は、ボイラー(とう)(かべ)煙突(えんとつ)のみを残して倒壊(とうかい)炎上(えんじょう)、広島駅の駅舎(えきしゃ)は、爆風(ばくふう)火災(かさい)により大破(たいは)した。

爆心地付近(ばくしんちふきん)

昭和20(1945)年 細工町(現在(げんざい)の大手町一丁目)

爆心地付近(ばくしんちふきん)から北西を見渡(みわた)す。写真左から、広島郵便局(ゆうびんきょく)鉄塔(てっとう)、広島県産業奨励館(さんぎょうしょうれいかん)原爆(げんばく)ドーム)、広島県商工経済会(しょうこうけいざいかい)、広島護国神社(ごこくじんじゃ)参道(さんどう)大鳥居(おおとりい)。手前は細工町から猿楽町(さるがくちょう)一帯(いったい)()(あと)