変わり果てた故郷(こきょう)

()(あと)に生きる

 昭和20(1945)年の秋以降(いこう)、人々の()らしぶりに焦点(しょうてん)を合わせた写真が多くなる。廃虚(はいきょ)に建てたバラック、復員兵(ふくいんへい)食糧(しょくりょう)の調達に出かける人でにぎわう駅前など、悲惨(ひさん)状況(じょうきょう)の中にも復興(ふっこう)の兆しが見える。

路上で洗濯(せんたく)

昭和20(1945)年
中島本町(現在(げんざい)の中島町 爆心地(ばくしんち)から約200m)

元安橋(もとやすばし)西詰(にしづめ)燃料会館(ねんりょうかいかん)前の(こわ)れた水道管から出る水で洗濯(せんたく)する女性(じょせい)被爆後(ひばくご)しばらくは、漏水(ろうすい)のため水圧(すいあつ)が低下し、蛇口(じゃぐち)をひねっても水の出ない状態(じょうたい)が続いた。
 

横川橋

昭和20(1945)年
横川橋(爆心地(ばくしんち)から約1,300m)

横川橋中央付近から横川駅のある北方を望む。中央の白い建物は広島市信用組合本部。スコップをかついで橋を(わた)る中学生は、()(あと)の整理作業に向かうのだろうか。
   
     

荷車で家財(かざい)を運ぶ

昭和20(1945)年
塚本町(つかもとちょう)現在(げんざい)堺町(さかいまち)一丁目 爆心地(ばくしんち)から約480m)

廃虚(はいきょ)の中、家財道具(かざいどうぐ)と子どもを()せた荷車を引く女性(じょせい)。後ろの建物は、レンガ(づくり)の芸備銀行塚本町支店。爆風(ばくふう)により、入口と壁面(へきめん)の一部を残して大破(たいは)した。
 

広島駅前

昭和20(1945)年
松原町(爆心地(ばくしんち)から約1,900m)

鉄道が復旧(ふっきゅう)した後も、石炭不足により列車の運行数は少なく、復員兵(ふくいんへい)引揚者(ひきあげしゃ)輸送(ゆそう)優先(ゆうせん)するため、一般旅客(いっぱんりょかく)の利用は制限(せいげん)された。広島駅には、乗車券(じょうしゃけん)を求める人の長い列ができた。

広島港に到着(とうちゃく)した復員兵(ふくいんへい)

昭和21(1946)年 広島港(宇品港(うじなこう)

アメリカ船に乗って広島港に到着(とうちゃく)した復員兵(ふくいんへい)。ようやく帰りついた故郷(こきょう)の変わり果てた姿(すがた)に、(かれ)らは何を思っただろうか。
 

石とトタンの家

昭和23(1948)年 広島駅付近

路面電車の軌道(きどう)敷石(しきいし)と焼けたトタン板でできた住居(じゅうきょ)。入口付近に置かれた食器や台所用品が、ここに人の()らしがあることを物語っている。
 

軍用地跡(ぐんようちあと)公営住宅(こうえいじゅうたく)

昭和24(1949)年 基町(もとまち)

野砲兵(やほうへい)第五連隊(だいごれんたい)(あと)に建てられた市営住宅(しえいじゅうたく)。昭和21(1946)年から昭和23(1948)年春までに、広島市と住宅営団(じゅうたくえいだん)は、被災者(ひさいしゃ)引揚者用(ひきあげしゃよう)住宅(じゅうたく)約2,000戸を建設(けんせつ)したが、入居(にゅうきょ)できたのは家屋を失った人々のごく一部にすぎなかった。