広島へ()せられた様々な援助(えんじょ)

精神養子(せいしんようし)運動

 被爆(ひばく)当時、市内の国民学校3年生以上の児童が市周辺部へ学童(がくどう)疎開(そかい)していたこともあり、多くの子どもたちが肉親を失った。
 子どもたちのために、海外の市民が肉親を失った広島の子どもたちと法的ではない養子縁組(ようしえんぐみ)を結ぶ精神養子(せいしんようし)提案(ていあん)され、養育資金(よういくしきん)が送付された。


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広島戦災児(せんさいじ)育成所の開設(かいせつ) 1947年(昭和22年)8月 広島戦災児(せんさいじ)育成所(佐伯郡(さえきぐん)五日市町(いつかいちちょう) 子どもたちの収容施設(しゅうようしせつ)は、被爆(ひばく)直後の8月10日、比治山(ひじやま)国民学校内に比治山(ひじやま)戦災児(せんさいじ)収容所(しゅうようじょ)(もう)けられたのが始まりだった。12月23日には、佐伯郡(さえきぐん)五日市町(いつかいちちょう)に広島戦災児(せんさいじ)育成所が(もう)けられ、学童(がくどう)疎開中(そかいちゅう)身寄(みよ)りを失った子どもたちなどが収容(しゅうよう)された。

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(くつ)みがきをする子どもたち 1948年(昭和23年) 広島駅前 原爆(げんばく)で多くの子どもたちが肉親を失った。また、生き残っていても生活の苦しさから家族と(はな)(ばな)れになることもあった。子どもたちも、(くつ)みがきなどを行いながら懸命(けんめい)に生きていた。

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養子となった子どもを()きかかえる
ノーマン・カズンズ氏
1951年(昭和26年)1月9日 似島(にのしま)学園(似島(にのしま) 広島戦災児(せんさいじ)育成所への資金送付(しきんそうふ)から始まった精神養子(せいしんようし)運動は、1950年(昭和25年)には、似島(にのしま)学園や新生学園など他の施設(しせつ)へも広がった。当初は、ノーマン・カズンズ氏が主筆をつとめる「土曜文学評論(ぶんがくひょうろん)」が窓口(まどぐち)で、その後、米国の「ヒロシマ・ピース・センター協力会」が窓口(まどぐち)となった。

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精神養子(せいしんようし)募集(ぼしゅう)のチラシ 「ヒロシマ・ピース・センター米国協力会」が精神養子(せいしんようし)への応募(おうぼ)()びかけたチラシ。教師(きょうし)医師(いし)主婦(しゅふ)などさまざまな人たちへ()びかけられ、養子縁組(ようしえんぐみ)する方法が記されている。

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(おく)られたプレゼントに喜ぶ子どもたち 1953年(昭和28年) 米国の親と子どもたちとの主な交流は、手紙やプレゼントの交換(こうかん)が中心だった。プレゼントとして、衣類や文房具(ぶんぼうぐ)、グローブなども(おく)られた。

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広島に来た親との別れを
()しむ子ども
1953年(昭和28年)10月 親たちの中には、子どもに会うため、実際(じっさい)に広島を(おとず)れる人もいた。子どもたちが成長し、手紙による交流が続く場合もあり、苦しい時には大きな(ささ)えとなった。

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子どもから親へ(おく)られた
人形としゃもじ
寄贈者(きそうしゃ)は、地元の婦人会(ふじんかい)を通じて精神養子(せいしんようし)運動に参加し、家族ぐるみで養子となった子どもへ手紙やプレゼントを送付した。人形としゃもじは、その子どもから(おく)られたもの。

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海外の家族 米国内では原爆投下(げんばくとうか)に対する罪悪感(ざいあくかん)(つぐな)いの気持ちから養親を希望する人たちもいた。

 42 子どもから海外の家族への手紙