支援(しえん)の広がり

被爆(ひばく)した女性(じょせい)たちの治療(ちりょう)

 女性(じょせい)にとって顔や手足に残るケロイドは、結婚(けっこん)恋愛(れんあい)をためらわせ、周囲から受ける視線(しせん)や言葉が絶望感(ぜつぼうかん)(あた)えることもあった。女性(じょせい)たちは、心の(いた)みを(かか)えながら、同じ境遇(きょうぐう)の仲間と(せっ)することなどを通じ、懸命(けんめい)に自立の道を(さが)しながら生きていた。
 女性(じょせい)たちの実情(じつじょう)は、報道(ほうどう)によって国内にも広く知られ、東京、大阪(おおさか)での治療(ちりょう)実現(じつげん)した。やがて、その実態(じったい)が米国へも伝わり、渡米(とべい)治療(ちりょう)実現(じつげん)することになった。


59 自立を目指して 被爆(ひばく)によりケロイドを負った女性(じょせい)たちは、就職(しゅうしょく)結婚(けっこん)のことで(なや)み苦しんだ。広島流川教会の谷本清牧師(ぼくし)は、同じ境遇(きょうぐう)女性(じょせい)たちのグループをつくり、精神的(せいしんてき)支援(しえん)を行った。また、「ヒロシマ・ピース・センター」では、婦人(ふじん)ホームや()の不自由な子どもたちの施設(しせつ)の仕事を紹介(しょうかい)し、自立の道を支援(しえん)した。
 
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東京での診察(しんさつ)
1952年(昭和27年)6月 東京大学病院小石川分院
谷本氏は、手術(しゅじゅつ)による女性(じょせい)たちのケロイド治療(ちりょう)も考えていた。また、女性(じょせい)たちと面会した作家の真杉静枝(ますぎしずえ)氏の尽力(じんりょく)もあり、1952年(昭和27年)6月、9人の被爆(ひばく)した女性(じょせい)たちが上京し、東京大学病院小石川分院での診察(しんさつ)実現(じつげん)した。

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米国へ向けて 1955年(昭和30年)5月5日 岩国空港 25名の女性(じょせい)たちは、ケロイド治療(ちりょう)のため1955年(昭和30年)5月5日、岩国空港から米空軍機で米国へ向けて飛び立った。
 
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渡米(とべい)治療(ちりょう)を受ける女性(じょせい)たちの発表 1955年(昭和30年)4月15日 広島市民病院(基町(もとまち)) 1955年(昭和30年)4月12日から14日にかけて、広島市民病院において43名が、治療(ちりょう)担当(たんとう)する米国の医師(いし)診察(しんさつ)を受け、10代後半から30代前半の女性(じょせい)たち25名の渡米(とべい)が決まった。

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女性(じょせい)たちと対面するマーヴィン・グリーン氏 1952年(昭和27年)6月 精神養子(せいしんようし)運動など事業の視察(しさつ)のために来日した「ヒロシマ・ピース・センター米国協力会」理事のマーヴィン・グリーン氏は、女性(じょせい)たちと対面した。女性(じょせい)たちの状況(じょうきょう)は、他の理事へも報告(ほうこく)され、米国でも治療(ちりょう)をという動きがみられるようになった。

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大阪(おおさか)での治療(ちりょう)(ささ)えた人々 1953年(昭和28年) 提供(ていきょう)/谷本チサ氏 支援活動(しえんかつどう)大阪(おおさか)へも広がり、1952年(昭和27年)12月には12人の女性(じょせい)たちが大阪市立(おおさかしりつ)医科大学(いかだいがく)病院と大阪大学(おおさかだいがく)病院で診察(しんさつ)を受けた。翌年(よくねん)の2月には「ヒロシマ・ピース・センター大阪協力会(おおさかきょうりょくかい)」が設立(せつりつ)され、組織的(そしきてき)支援(しえん)が行われた。
 
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マウント・サイナイ病院 治療(ちりょう)を受け入れたのは、ニューヨークのマウント・サイナイ病院だった。アーサー.J.バースキー氏ら病院の形成外科のスタッフが治療(ちりょう)にあたった。

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マウント・サイナイ病院でのケロイド治療(ちりょう) 病院には数人ずつ交代で入院し、治療(ちりょう)を受けた。顔や体のケロイドを消す手術(しゅじゅつ)が行われ、1人が何度も手術(しゅじゅつ)を受け、その数は合計で100回以上にも(およ)んだ。
 
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(とど)けられた衣服 1956年(昭和31年)4月28日 米国滞在中(たいざいちゅう)には、現地(げんち)のテレビ局に出演(しゅつえん)し、原爆(げんばく)実態(じったい)(うった)える機会もあり、多くの募金(ぼきん)が集まり、治療(ちりょう)を必要とする広島の女性(じょせい)たちへも資金(しきん)や衣類などが(とど)けられた。

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(あたた)かい家庭の中で 入院していない時は、一般(いっぱん)家庭へ2人1組でホームステイ。ホームステイ先の地域(ちいき)では、パーティーも(もよお)され、女性(じょせい)たちは、現地(げんち)の人々と交流することで積極的な気持ちを取り(もど)していった。
 
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多くの人に見送られて 1956年(昭和31年)6月 女性(じょせい)たちは、約1年の治療(ちりょう)を終え、帰国の()についた。滞在中(たいざいちゅう)現地(げんち)の学校に通うなど、将来(しょうらい)にも目を向けていた。(さら)なる勉強のため、米国へ残った人もいた。